水渓


 水が走る。
 山の間を、存外幅広く、存外緩やかな斜面を、走る。
 萌える木々の下を、ごうごうと音を立て、細かな飛沫を噴き上げるように散らしながら、走る。
 散った飛沫はうっすらとした霧と化し、速い流れとは裏腹に、さらりゆらりと空を漂う。
 霧は若葉に触れ、珠となって新緑を飾る。あるいは川面に帰り、また走りゆくものがある。
 速い水が熱を奪うのか、漂う霧が空を冷やすのか、萌葱の下の川辺は、夏だというのにひんやりと涼しい。
 そこに座す、雲水が一人あった。
 墨染めの僧衣を纏い、脇に笠と、錫杖を置いてある。
 しかし、仏道修行の僧ではないように見える。
 なんと言おうか、その雲水の持つ「におい」とでもいうようなものが、僧のそれとはとうてい思えないのである。
 それを端的に示しているのが、雲水の髪だった。
 背の中程まである髪は、走る水が生む風に、微かに、揺れている。
 それだけが、座した雲水の体に見える動きだ。
 あぐらをかいた膝の上に軽く握った拳を置き、走る水に半分閉じた眼を向けている。
 水は走る。
 若緑の葉が手を取り合い天井となり、日の動きも伺えない。
 ただ水が走り、紗霧が漂うだけ。
 雲水の目はただそれを映している。
 その目が、一度、二度、大きく、しかしゆっくりと瞬いた。
 閉じられる。
「よいところでしょう」
 走る水のように透き通った、だが大気のように冷たくも静かな声が、雲水にかけられた。
「確かに」
 目を閉じたまま、雲水は答えた。低い、どちらかといえば小さな声だったが、水音に消えることのない、よく通る声だ。
「どちらから」
 どこから現れたのか、一人の青年が、雲水の前に立っていた。
 袖無しの上衣に軽袗(かるさん)のような袴をはいた、身軽な出で立ちだ。後ろ腰に、刀を一振り吊している。
 その素朴ななりをしているのが不思議なほど、美しい青年であった。澄んだ水のような美しさと、激しい流れの持つ冷たさと厳しさを己が中に同居させた、美しい青年であった。
「さて」
 声に混じった息が、白く揺らいで霧に消える。
「行雲流水の身なれば」
「そうですか」
 さやかに霧が揺れる。だが、それだけだ。
「賢明な答え……ですね」
 大気が声にならぬ叫びを上げ、おびえた霧が「それ」から逃れる。
 水も、木々も、岩も石も持たぬ色が、細く流れた。
 雲水は目を開かない。
「この度は、これで。
 しばらくは…お会いしたくはありませんね」
 言葉に最後に混じったのは嘲笑か、挑発か。
 だが、雲水は目を開くことなく、また言葉を返すこともなかった。
 水が走る。
 何かに導かれるように、何かに誘われるように、一心に、駆ける。
 そこより生まれた霧は、裏腹にゆったりと、一時の休息を楽しむように、大気を漂う。
 雲水は、ゆっくりと目を開いた。
 青年の姿は、もうない。
 右の手を、顔にやる。左頬に横に一筋、傷が走っていた。霧を含んだ大気のせいか、血はまだ、乾いていない。
 ぴりりとひきつるような、それでいて弱い痛みが、そこにある。
 指についた赤いものを見る。
「………………」
 その口元が、僅かに、歪んだ。



 水が踊る。
 平坦なものではない、起伏し、時には別れ、また戻る道を、軽やかに、楽しげに、踊りいく。
 行く手を遮る岩に砕けては無数の小さな珠となり、散り踊る。
 そこに、風間蒼月はいた。
 踊る水のただ中の岩の上に一人、ただずんでいる。
 軽く目を閉じ、何かを待っているようである。
 表情なく、動きもないその姿は、何故か、網を張った蜘蛛を思わせた。
 罠に落ちる獲物を、じっと待つ、蜘蛛を。
 踊る水は時折飽きたかのように霧となり、若い緑に安らぎを求め、一時の休息の後、また帰る。
 雫となり、落ちる。
 目が開く。
 飛び込む、闇色の影。
 そこにはなかった色が、萌葱を突き破るように、飛び込む。
 影が引く紅は先日落ちた色にも似て、異なっていた。
 その足が止まる。
 闇色の装束、首には真紅の巻布。背に一振りの刀を負っている。
 伊賀忍にその人ありと知られた、服部半蔵である。
 半蔵は蒼月を見ていた。
 やはりいた。そう言うかのようであった。
 鉢金と覆面に隠され、その表情は定かにはうかがえないのであるけれども。
「一人…ですか」
 表情には出なかったが、言った蒼月の声には軽い驚きがあった。
 答えずに半蔵は右足を少し、引いた。
 蒼月を誘うように、挑発するように。
 その手が、動いたように思えた。
「…………」
 微かに蒼月の顔に、不快の色が浮かんだ。
 その耳は、倒れる者の呻き声をはっきりと捉えている。
 川辺に立つ半蔵の手にはいつの間にか、十字の型の手裏剣があった。
「わざわざ赴いたのだ。相手をするのが迎える側の役目であろう」
 覆面の下の顔が笑んだ、と蒼月は感じた。意識的な、挑発の笑みを浮かべたと。
「そう…ですね。
 しかし、お相手するのは私だけで十分かと」
 ざんっ、と、蒼月の両横で巨大な水柱が二柱、噴き上がる。
「なるほど」
 しゅるっ、と半蔵の右腕を、蛇のように焔が絡んだ。

 戦いは蒼月が有利のようだった。
 流れからは蛇のような形を取った水が、その手からは高速に回転する水珠が半蔵に襲いかかり、近寄ることを許さない。
 半蔵はそれらをあるいは躱わし、あるいは切り捨て、あるいは己が放つ焔で打ち消す。しかし足場の悪いことに加え、蒼月が走る水の中にいるため、自分の間合いを取りきれずにいる。
 水蛇がまた一匹、半蔵に襲いかかった。
 左足を引く。半身で、ぎりぎりのところで躱わしながら、体を前に倒し、低い姿勢で飛ぶ。
 その動きについていきかねた巻布の先が、水蛇に喰い破られ、散る。
 紅いかけらを散らしながら、半蔵は流れの中の岩を更に蹴り、霧を裂いて一気に蒼月に襲いかかる。
「死月」
 左肩の位置で構えた蒼月の手から、次々に三つ、水珠が半蔵に向けて、飛んだ。
 一つは、斬り捨てた。
 一つは宙で器用に躱わした。
 しかし最後の一つが、その胸を貫いた。
 体が海老反りになり、確かに断末魔の声が霧を震わしたかと、見えた。
 だが、それは霧が上げた、悲鳴だった。
「!」
 蒼月の背後に、闇色の影が舞い降り、それと同時に、一閃。
 崩れ落ちる、水。
 噴き上がる水。
 半蔵の身は、紙一重で再び宙に舞い、別の岩の上に、降り立った。
 しかしその左の肩当て、そして鉢金に、いましがた噴き上がった水の牙が刻んだ痕が、くっきりと残っていた。
 岩に砕け、踊る水が半蔵の身を濡らす。
 つっ、と半蔵は片手で刀を青眼に据えた。
 その正面、たった三丈離れた岩の上に、蒼月がいた。左腕から、血が滴っている。
 巻布の切れ端が水の上に落ち、あっという間に遠くに見えなくなった。
「やりますね」
 蒼月は流れる己の血を指にすくい、ぺろ、となめた。
「お主も、な」
 半蔵は左手で乱れた巻布を背に流した。
「しかし、いつまでもあなたと遊んでいるわけにも、いきません」
 蒼月は初めて、後ろ腰の刀の柄に手を置いた。
「同感だ」
 言った半蔵のその身に絡みつくように、霧が流れる。
 しゅらと、蒼月は刀を抜いた。
 恭しく、蒼月に従うように、霧は白い渦を巻き始める。半蔵を中に、最初はゆっくりと大きく、次第に回転を速め、輪を小さくしていく……
 不意に、霧の流れが止まった。
 ひうっ!
 甲高い笛のような音と共に、槍と化した霧が四方八方から一斉に半蔵に向かって襲いかかる。
 しかし一瞬早く、半蔵は己を囲む霧へ身を投じていた。
「逃がしませんよ」
 蒼月はただ視線で半蔵を追う。それに応じ、霧の刃が、槍が半蔵を追う。
 弾指、半蔵の身が沈んだ。
 濡れた岩を、あるいは浅瀬の底を蹴る。
 霧の包む宙を舞う。
 半蔵の身が沈む度、あるいは宙に舞う度に、白い刃が虚しく空を切る。
 その右手にはいつの間にか、刀の代わりに、みずみずしい緑の葉を茂らせた枝が一つ、握られていた。
 ぱしゃ、と音を立てて浅瀬を蹴りながら、蒼月に視線を向ける。
 蒼月の目の中に、苛立ちの色が現れ、少しずつ広がりつつあった。
 加減などしていない。するはずも、その必要もない。だが、まだ半蔵は生きている。蒼月の攻撃を躱わしている。
 そして、何かが高まりつつある。
 じりじりと、なにかが。
 何だ。
 水気強きこの地では、火気使いの半蔵には思うように力は使えないはず。そのはず。
――いや。
 半蔵の手にある奇妙なもの、何の変哲もない、ただの木の枝。それに蒼月の目が止まる。
――『木』……『水』よりいづる……『木』よりいづるは!
 どんっ!
 蒼月がそのことに気づいた瞬間、半蔵の飛んだ先に、水柱が立った。
 半蔵は強引に身を捻り、ぎりぎりのところでそれをいなした。だが左の肩当てがはぜ飛び、半蔵の姿勢が大きく崩れる。
 その隙を逃す事なく刃が一斉に襲いかかり、水柱が再び噴き上がる!
 逡巡――
 半蔵は『それ』を解き放った。
「天魔覆滅!」
 朱い火柱が、水も、霧も、打ち砕いた。
 すさまじい音を上げ、もうもうと濃い白の蒸気が霧を飲み込み、辺りを覆い尽くす。
「くっ!」
 無礼にも蒼月の視界を隠す蒸気から、蒼月は顔をかばった。
 今まで漂っていた霧とは違い、蒸気は火傷するかと思うほどの熱気を宿していた。
 その中を駆け、飛んだ半蔵は、ふわりと蒼月の前に降り立ち、無造作にその腰を抱えた。
「モズ落とし!」
 走り踊る水の歌声の中に、一つ、音が上がった。
 水柱、一つ。


 透き通る水は身を切る如く冷たく、走る勢いは動きの自由を奪う。
 上も下もわからぬままに引きずり回され、それでもどうにか、半蔵は岸に上がった。
 覆面は脱ぎ捨て、素顔を晒している。その左顔面に縦に走った傷に、頬に横一文字の傷が、うっすらと交差しているのが見えた。
 対岸を見やる。
 ごうごうと唸る水を挟んだそこに、蒼月の姿があった。
 水の中で束ねていたものが解けたか、濡れて一層艶やかな長い髪が、背に流れている。
 美しさ故か、表情を浮かべぬためか、それとも、ひしひしと感じられるその強き力の故か。
――みずのまもの。
 そんな言葉がふと、半蔵の脳裏に浮かび、そうだと強く思った。
 その「みずのまもの」は、半蔵を見ていた。
 見据えるでなく、睨むでなく、ただ、見ていた。
 何の感情もない。
 玻璃の様に澄んだ瞳には、何の想いもないように見える。
 それでも、霧が自然ではない動きを取り始める。
 蒼月を守るように、半蔵を威嚇するように。
 だが、その時。
 ぴぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!
 甲高い音が、空を裂いた。
 ゆるゆると、半蔵は天を見上げた。
「終わりだ」
 呟き、蒼月を見る。
「……………………」
 霧がさざめく。
「そう…ですね……」
 蒼月の声は、冷たいまでに静かだった。
「では」
 霧が揺れる。
 水が走る。
 水が踊る。
 軽やかに、激しく、何も知らぬ顔で、走り、踊る。 川岸には、誰もいない。
 ただ霧が、ゆったりと流れるだけだった。

                                                  終

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