花房


 滑る、視線。

 けぶった空に、ぼやりと大きな月が光る夜だった。
 背後に感じたそれに、半蔵は足を止める。
 気配はない。振り返っても、それらしいものはない。
 だが、確かに感じる。
――視線?
 見られた、と感じた。見るもの、がいる。
 だが、微かな違和感が、ある。
――…………
 右へ。
 動いている。音なく、流れるように、よどみなく。
 しかしひたと、半蔵を見ている……ようだ。
――……どこだ。
 追う。
「む」

 そっと、あえかに紫をさす。
 そんな風に色づけられた花が、重く垂れ下がる。
 頼りなげで、危うさのない。
 大気にはほんのりと花の香が漂う。

 あっただろうか。
 なかったのだろうか。
 だが今は目の前にある。
 淡い月光の下、既に息絶えた古木を飾るように咲く、藤の花々。
 そして、その花の下に、女が一人。
 腕や足を露にした昏い色の衣を纏い、両の手には、一振りずつ剣がある。
 年の頃は……二十を超えた女の様にも、まだいとけなさを残した少女の様にも見える。
 妖艶な色香と、無垢な清らかさとを同時に宿した女。
 その両の眼が、半蔵に向けられていた。
 おぼろな月明りにもしかとわかる、青と赤、この世の者には有り得ない色の目で、忍を見ていた。
――否。
 気づく。
 『見ては』いない。
 双眸に半蔵は映っている。だが、見てはいないのだ。映っているだけに過ぎない。
 意志の無い視線。
 先ほどからの違和感の正体を、半蔵はそう把握した。
「何奴か」
 低く誰何する。
 女からは敵意も、邪気も感じられない。花のようにただ、そこに在るだけと見える。
「………」
 女は無言で、首を僅かに曲げた。
 童が知らないものを見るかのように。
「わた、し…」
 小さな形よい唇から、辛うじて意味を為す『音』が、洩れる。
 …からん
 乾いた木がぶつかる音を、聞いたように思う。
 ず、と右の足を引く。
 紫の花の匂いが、強くなったように思う。
「……わ、た、し………わたしは、しき」
 剣を握ったままの両の手を胸の前で交差する。
 何かを愛おしむように、何かを守るように。
 何かにおびえる、子供のように。
「しき」
 繰り返した音は、『色』と聞こえた。
「おまえ、は」
 両の目が、初めて半蔵を映す。
――……………
 知らず手が、背の刀の柄に伸びる。
 色というこの女からは殺意も敵意も……まともな感情は感じられないというのに。
 あるのはただ、「惑い」とでも言うべき心の震え。
 それでも半蔵の勘が告げる。この女は危険であると。警戒せよと。
 一度、二度、女の玻璃のような目が、瞬く。
「チ・ガ・ウ」
 色の口から、先とはまるで違う男の声が、出た。
 細くたおやかなその身に、魔性の気が絡みつく。
「オ、マ、エ、は、ち、が、う………!」
 かっ、と見開かれた目に、初めて『色』が現れる。
 かくん、と左の腕が釣り上げられるようにあがる。
 続いて、右腕も。
 ぎく、しゃく、と足が前に、進む。
 青白い魔の気を両の刃が放つ。
「あ、あ、ああ………」
 虚ろに開いた口から上がる声には苦痛、そして、
――怒り。
「いやあ……いや、いや、ああああああぁぁぁぁっ!」
 とっさに半蔵は左に跳んだ。
 風を切る音さえなく、色の刃が一瞬前まで半蔵のいた空間を薙ぐ。
「あああっ!」
 叫びと共に両の刃が半蔵を襲う。
 ぎぃんっ
「くっ」
 その細い腕からは想像もつかぬ力に、半蔵の顔が歪む。
 色は力任せに二刀を押し付ける。
 赤と青の目に宿った、切なるまでに求める激しい怒り。
――………救い………
「……っ!」
 体を捻り、色の左の脇に蹴りをたたき込む。
 しかし手ごたえはなく、風にそよいだ花房のようにふわりと、その体は半蔵から離れた。
 半蔵も少し下がって間合いを計る。
 花の濃い匂いが、むせかえるようだ。
 色の肩は荒く上下し、その感情の高ぶりを示す。先ほどの様と比べれば、まるで別人だ。
 両の手をまっすぐ後ろに引き、色は身を低くする。
「はあぁぁぁぁぁぁっ!」
 疾る。
――速い。
 左に走る。
 色が跳び、追う。
「ぃやぁっ!」
 右手の剣が振るわれる。
 半蔵は後ろに下がり、躱わす。
――左。
 色の左手の剣―右のものより長い―が続いてくる。
 がんっ
 忍刀がそれを受け止める。
 赤い目が、ちらとその方を見る。
 くいと手首を捻った。
 しぃぃぃぃぃんっ!
 金属の擦れ合う耳障りな音を上げ、剣が半蔵の刃の上を滑る。細い躰が、近づく。
 色の右手がするりと半蔵の首に回る。
 赤。
 青。
 視界を二つの虚ろで底知れぬ色が埋める。
 揺れ、もがき、あがく。
 知らぬから、何も知らぬから……
――……ぬ……
 がくん、と足から力が抜ける。
 背筋に、悪寒。
 背に回された右の剣が、半蔵の背中に突き立ち、崩れるようにその身が倒れる。
「……?」
 色は何もない地を見た。
「!」
 ぢぢんっ
 弾けるように手が動き、二つ、手裏剣を叩き落とす。
 目は、その後から動いた。
 その視線の先―三間ほどの距離の位置に、半蔵がいる。
 とっさに空蝉で離れようとしたものの、体が妙に重く、力がうまく入らなかった。そのため剣を躱わしきれなかった。傷は深くはないが、痛みがある。
 体はまだ重い。
 すうっと色が背を伸ばす。
 胸の前に右手を置き、後ろ腰に左手を回す。
 僅かに身が沈んだのを、半蔵は見取った。
 思うようにならぬ体。決断は瞬息。
――退く。
 拳を地に打ちつける。
「微塵隠れっ!」
 朱い焔が噴き上がり、膨れ上がり、一気に爆発する。
 その向こうに、宙より襲いくる色の肢体。
 無垢な、ただそうすることしかできぬ怒りのみがその双眸のみに、在った。
「あああぁぁ…………っ!」
 悲鳴とも叫びともつかぬ声は、爆音に消えた。




 木の幹に手をつき、それでも己が身を支えられず、ずるずると半蔵は座り込む。
 どれほど走ったか。色の気配はなく、藤の花の香も、もうない。
 在るのはただ、ぼんやりとした月光だけだ。
 つまりは逃げ延びたということだろう。
 背の傷が痛む。しかし手当しようという気にならない。それすらも億劫でならない。
――さほどの傷ではない…
 思いながら、目を閉じる。
 鮮やかな赤と青が、瞼の裏に浮かび上がる。
 震え、怒りに満ちていた、虚ろな二つの目。
 在ったあれは、幼子の怒りだ。求めるものが得られず、どうやって求めればいいかわからず、ただただ怒ることしかできぬ者の、怒り。
 求めるものが得られず、あがき、苦しむ……魔に囚われた魂。
 似たものを知っている……そう思いながら、半蔵は暫しの眠りに落ちていった。
 赤と青は、そのぎりぎりまで、半蔵の意識の中で揺らめいていた。
 紫の花と共に。

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