漂う。 しんとした月の光に満ちた、夜の大気の中を、一つ、二つ、三つ…… 丈の高い草の茂った野原を、ぽお、ぽおと明滅を繰り返しながら、無数の小さな光が緩やかに空を漂う。 螢だ。 いくつかは草葉に降りて羽を休め、あるいは葉に下りた露を吸っているものもある。だが多くは、つつうと短く光の尾を引きながら、夜闇を漂っている。 しゅうるりと、風が吹いた。 吹いた風に揺れながらも、螢は一つとして流されることなく、ぽおと空を漂う。 その代わりのように、ひる、と風をはらみ、『それ』が翻った。 月明かりにもしかとわかる、それでいて闇に溶け込む真紅。 螢の漂う中、気配を断って佇む忍―闇色の装束を纏い、覆面と鉢金で顔を隠した忍―の巻布。 翻った紅にふうと螢は漂い、巻布が風を手放して元の通り忍の背に流れると、またふうと漂う。 巻布の動きに従うようであり、最初から巻布など関係ないかのようであり。 そのように漂う螢の中の一つが、忍の大きな肩当てに、止まった。 「………………」 それまで身じろぎ一つしなかった忍が視線をそこに向け、右の手を伸ばした。 螢はまるで誘われたかのように、その指の先に移る。 そして、今までと変わらず、ぽお、ぽおと熱のない光を放つ。 忍は無言でそれを見つめている。 ひる、とまた巻布が風を抱いた。さらさらと草が身を揺らす。 「半蔵様」 忍の前に、影が一つ姿を現した。 忍―伊賀衆最強の忍、服部半蔵は螢の止まる指を、微かに動かした。 ぽお、と螢は半蔵の指からふうっと離れ、淡い光の尾を引いて流れる。 それを目で追うこともなく、半蔵は腕を組む。 「『城』ですが……」 半蔵の前に片膝をついた影は、低い声で淡々と述べ始めた。 半蔵は無言でそれを聞いていたが、 「……娘、と」 気にかかったその言葉を、半蔵は問い返した。 ざわりと風が走り、草葉の上の螢がいくつか、空に流れる。 「は。まだ若い娘が一人、天草の手で『城』にさらわれるを見たという話が。 真偽は定かではありませぬが、この辺りの忍の一族の者とか」 「風間か」 風間とは肥前を拠点とする、何者にも仕えぬ忍の一族の名である。ほとんど知られていない忍群であるが、他に類を見ない独自の技や術を使い、かなりの力を持っているという。 「おそらくは。 調べておきましょうか」 「いや。他に何かあるか」 「これで全てに」 「ならば戻れ」 「はっ」 答えると、影は闇に姿を消した。 同時に半蔵は半歩、右に動く。 ごぉっ 朱く、熱を抱いたモノが半蔵の身を掠め飛んだ。 緑がかった螢のそれとはまるで違う朱い光は虚しく空を貫き、草に当たって散った。しゅうと音を立て、白い煙が、上る。 「……何奴」 半蔵は『そこ』に目を向け、言った。 「今のは、わざと外した」 そう言いながらも抑え切れていない動揺が見え隠れする声とともに、若い男が姿を現した。癖の強い跳ねた赤い髪に、感情のよく表れる―今は怒りと苛立ちがある―三白眼が特徴的であり、袖無しの赤い上衣に軽衫という見慣れない格好をしている。後ろ腰に短い刀を吊しており、その柄に男の右手がかかっている。 「……ほう」 半蔵は先と同じ、腕を組んだ姿勢で鉢金の下から、男を見据えた。 この男、少々直情的と見えるが忍であろう。もっとも伊賀の流れを汲む者ではなく、半蔵の知る他の忍群のどれとも違っている。つまり… 「貴様、風間の忍か」 「……おう。俺の名は風間火月。だが、今は風間とは関係ねぇ。 『娘』のことを教えろ。さっき話していただろ。話さねぇと痛い目を見るぜ」 「断る」 「何ぃっ!?」 ぼう、と周りがほのかに明るくなった。火月と名乗ったこの若い忍から立ち上る、強烈な火の気が薄い光を放っているのだ。それは緑がかった螢の光とは違う、朱い、熱を底に抱く光であった。 「貴様も忍ならば、わかることだろう」 焔が蛇のように、半蔵の右腕に絡みつく。火月の火気に呼ばれたのか、その勢いは普段よりも強い。 「ちっ。 それなら力づくで話してもらうぜ!」 一つ。 二つ。 三つ。 火月の体から立ち昇る火の気が凝り、小さな焔をとなって宙を揺らめく。 「いくぜぇっ! 焼滅!」 腕を突きだし、鉄砲を撃つように跳ね上げる。 ごっ! 先の朱よりも速く熱い焔の塊が、半蔵に向けて、飛ぶ。 紅の巻布が翻り、螢がふうと流れた。 さわ、と草がやわらかく焔を受け止める。露を抱いた生きた草は、またしゅうと白い煙を上げただけだ。 半蔵の姿はその昇る煙の上、螢も漂わぬ宙に、在った。こお、と冷たい夜の大気がその身を包む。 「烈風、手裏剣!」 ふ、と一瞬宙で制止したその瞬間に、十字の型の手裏剣を、打つ。 「喰らうかよっ!」 ぢんっ! 火月は自分から手裏剣に突っ込み、抜いた短い刀で叩き落とした。 そのまま、駆ける。 地を蹴って跳び、降りてくる半蔵に斬りかかる。 迫る刃に半蔵は身を捻り、左の籠手でそれを受け止める。鈍い衝撃が走るのを感じながら、右手で火月の襟元を掴んでぐっと引き寄せ、火月の体を後方に突き飛ばす。その反動を利用して跳び離れ、右の拳で地を打つ。 「爆炎龍!」 朱く燃えさかる焔の龍が地から跳びだし、身を躍らせて火月に襲いかかった。 「ちっ!」 一瞬体勢を崩しつつも火月はすぐに振り返り、構える。刀を持たない左手が、焔に包まれる。 「おらぁっ!」 流石の半蔵もその光景には我が目を疑った。 火月は焔を宿した左手で、焔の龍を掴んだのだ。焔の龍をつかめるはずもないが、確かにそう見えた。 「大炎上っ!」 声とともに、爆発。龍が四散し、火の粉が宙を舞う。 「ぬるいなっ!」 螢にも似た、だが命なき赤い光…それを突き抜け、火月は半蔵に襲いかかった。いつの間にか焔に包まれた刃が、下段から逆袈裟に走る。 半蔵は軽く後ろに跳んでその一撃を躱わすと素早く踏み込み、開いた火月の体に拳、肘と続けざまにたたき込む。間髪入れず肘を支点に身を捻り、火月のこめかみを狙って上段に蹴りを放つ。 ――……! とん、とふらついた足で、火月は地を蹴った。その後を追って、半蔵の蹴りが唸りをあげる。 「がっ!」 躱わしきることはできなかったが、直撃よりはましだった。そのまま蹴りを喰らった勢いに乗り、火月は地へと身を投げる。たん、と強く手を付き、その力で体を宙に飛ばす。 ようやく蹴りから、構えに戻った半蔵に向かって。 「愚連脚!」 躱わそうとした半蔵の体を強引に蹴り上げる。立て続けに蹴りつげ、宙に舞い上がる。 「オラオラオラオラオラッ!」 一際強く半蔵の胸を蹴り、その勢いを利用してくるりと身を返して頭の上で両の手を組む。ごおっと焔がそこに宿る。 「決まりだっ!」 最上段から半蔵の体に振り下ろす…… 「……あれ?」 拳は、空を切った。その下をふうと螢が漂うのが、見える。 背後に、気配。 「モズ落とし!」 半蔵は火月の腰を抱えるように掴み、ぐん、と反転。背中から火月を地に叩きつけ、自身はその反動で間合いを取る。 「……ぐ……」 微かに呻く火月を、半蔵は見下ろした。 「もうやめよ。無駄だ」 「まだ、まだだ……」 よろよろと火月は立ち上がった。足下もおぼつかぬというのに、まだその闘気は衰えない。 ――よく立ち上がる……『娘』がそれほど大事か。 「……俺は、妹を……、救う……ここで、倒れるわけには…いかねぇっ!」 くわ、と火月は目を見開いた。そこにあるのは切なるまでの、ただ一つの想い。 ――…妹、か。 火月の周りをずっと漂っていた三つの焔が膨れ上がり、あっという間に火月を飲み込む。 怯えたように、螢が散った。 「ぬああああああああああああっ!」 天をも貫かんばかりの火柱が、火月を中心に噴き上がった。中に浮かんだ火月の黒い影が、人のものとは思えぬ形に歪んで見える。 ――……来るかっ! 「いっくぜぇぇぇぇっ!」 火柱から飛び出す、焔を纏った…… ――獣……! ぎらぎらと目は輝き、雄叫びをあげる口には牙すら見える気がする。 「くらえぇっ!」 振り下ろされる腕を、地を転がって逃れる。 火月は深追いすることなく、そのまま駆け抜けた。 力はかなりのものと見えたが、制し切れていないらしく、小回りがきかないようだ。 ――ならば。 半蔵は刀を引き抜きながら、わざと火月の正面へ走る。 「……我が身、既に鉄なり……」 横一文字に、刀を構える。 「今度は、はずさねぇっ!」 焔の獣が、駆ける。 「……我が心、既に空なり……」 いん、と『焔』が半蔵の内に収束する。 「暴爆、火炎撃っ!」 すい、と半蔵は身を沈める。 ぶおんと熱気がその頭上を抜ける。しかし、 ――浅い……!? ニヤリと獣が笑う。 「あめぇっ!」 焔に包まれた蹴りが半蔵を襲う。 だがその瞬間、半蔵は刀を地に突き立てていた。 解き放つ。 「天魔覆滅!」 再び噴き上がる、火柱。 同時に蹴りを喰らって半蔵の体は宙を飛ぶ。 「がああああああっ!」 焔の獣は火柱の中、絶叫をあげた。 ぽう、と螢は宙を漂っていた。 時折思い出したように駆け抜ける風にさらわれていきそうで、いかない。 静けさと闇を取り戻した空を、何事もなかったかのように漂い続ける。 半蔵はそれら小さな光の漂う中、腕を組み、静かに佇んでいた。 その足下には、火月が倒れている。 ぽたり、と草の葉の先から露が火月の顔に落ちた。 「……葉月……」 掠れた声で呟いたのは、妹の名か。 ふわ、と火月の鼻の先に止まっていた螢が、夜闇に流れた。 「気がついたか」 「ん……あ……!? てめぇっ!」 低く声をかけると、慌てて体を起こす。痛みのせいか顔を歪めたが、それでも片膝立ちになって半蔵を睨み付ける。 「元気なものだ」 「どういうつもりだ」 ぎ、と睨み付けながらも、その顔には当惑の色が見える。やはり忍にしては感情が露わになりやすい質である。 「何が」 「何故殺さねぇ」 「それは役目ではない」 「……なら、何故いる。俺なんか放っておけばいいだろう」 なんだ、こいつは。 火月がそう思っているのが手に取るように伝わってくる。 「……教えてくれるって訳じゃねぇんだろ」 「その通りだ。何も言う気はない」 ばさりと巻布を翻し、半蔵は火月に背を向ける。 「じゃあ、何故……」 構わず、歩き始める。 「待てよ!」 「……何だ」 肩越しに僅かだけ、振り返る。 「………う………」 鉢金の下から見据える半蔵の目に、火月は口ごもる。このまま行かせるのが悔しかったのだ。何か言うつもりだったわけでは、無い。 「……てめぇ…てめぇ……最後の一発、効かなかったのかよ」 何を言ったらいいのか迷ったあげく、火月はそう言った。 「……だからだ」 短く答え、歩みを再開する。 左腕から頭に響くような痛みが続いている。最後に火月の蹴りを受けた左の二の腕が熱を持っている。傷はなく、骨にも異常はないようだが、熱が引かない。後一瞬、焔を放つのが遅ければ、どうなっていたことか。 だが表には何も出さず、ただ、歩む。 「………………」 火月はじっと、その背を見つめていた。 さわさわと草を分け、半蔵は歩んでいく。風をはらんで、紅の巻布が大きく翻る。その紅の側にも、螢の光がある。 ――……かなり、効いたか…… あれだけの動きを見せた忍が、あの程度にしか進めないということは。 痛む体をなだめながら火月は立ち上がった。後をついていけば、妹の手がかりが得られるはずだ。あの巻布がいい目印に…… ――……まさか。 そのために、火月が気づくまで残って、いや、待っていた……? 先を行く背は、何も答えない。 ――まさか。 螢は変わらず、月光の下の闇を漂っていた。翻る紅も、進む忍も、そして火月も知らぬように、ただただ漂う。 ぽう、ぽうと、明滅を繰り返しながら。 |