雨宿・後編


 ふっ、と小さく半蔵は息を吐いた。
 あの時のことを思い返すたびに、重いもの―敢えて一つの言葉とするなら、後悔―を胸に感じる。
 どうにもならなかった、なるべくしてそうなったのだと、二十年の時を経た今はわかっているのだが。
 それでも、ひょっとしたら自分は、何かできていたのかもしれないとも思っている。
 そんなことを、忍が思う。
 おかしなものだと、半蔵は他人事のように思う。
「十兵衛」
「うん?」
「お主は、強くなりたいか」
 言って半蔵は、白石を盤の上に滑らせる。
「強さを求めるは、剣の道に生きる者ならば当然のことであろう」
 ぱちん、と高い音が上がる。
「剣の道で強くなるには、どうする」
 十兵衛は困ったような苦笑を浮かべた。
「難しいことをいきなり聞くな」
 だがその笑みは、己を見据える半蔵の目の前に、消えた。
――試されているようだな。
 ふと、そう思う。
「刀は所詮、人を殺す道具に過ぎん」
「うむ」
 端的な物言いに、苦笑を口の端に浮かべて頷く。
 しかしこれが、半蔵にとっての『剣』の全てなのだろう。
「刀は人を斬るものだ。剣術は人の斬り方を学ぶものだ。
 ならば、人を斬らずして、真に剣の道を極めることなど、できぬのではないか」
 問うて、半蔵は白石を打った。
「……ふむ」
 十兵衛は顔をしかめた。
――この男には決して剣人の心はわかるまい。
 だからこそ、己に声をかけたのだと、十兵衛は知った。
 この男はその『わからない』ことに心が揺れている。普段なら捨て置くことのはずだが、そうできないでいる。その訳は間違いなく、
『伊賀忍服部半蔵は、誰よりも『鬼』を知る者』
 それは裏柳生の衆より『噂』として聞いたことだ。そして半蔵はそれを否定せず、己の知る『鬼』の過去を語った。
「ならば剣の道を究めるには、人を斬るしかないのか」
 障子を通した雨音が、かなり五月蠅く感じられる。
 雨はいつの間にか、激しい降りになっていた。


 まっすぐに澄み切った、青い青い、空。
 地面に無数に落ちた、赤い、赤い椿。
 その中で男は天空の高みを見上げていた。
 男の気持ちは理解できなかった。
 しかし、そんな目ができることに、心のどこかで羨ましさを感じていた。

 そうだったと知ったのは、ずっと、後になってからなのだが。


「ふむ」
 一つ唸ると、十兵衛は盤から黒石を取り除き始めた。
「確かに、そうだ」
 頷く。
 半蔵はそんな十兵衛を見ている。
 変わらず、特に何の表情も浮かべてはいない。しかしなんとなく、十兵衛の言葉の続きを待っているような、そんな空気があった。
 だが、十兵衛は黙々と、黒石を取り除き続けた。

 黒石がすべて、盤の上から消えた。

 じゃらっ
 残された白石を半蔵は右の手で集めると、そのまま左手の上に盤から落とした。
 ぱちん、と十兵衛は何もなくなった盤の上に黒石を置く。
 音なく、視線は十兵衛に向けたまま、半蔵は白石を置いた。
「人を斬らねば剣の真髄を知ることはできぬ、と儂は信じておる。
 なれどな、半蔵よ」
 十兵衛の明き目が、半蔵の視線を受け止める。
「実のところは儂にはわからぬよ」
「なんだと?」
「斬らずとも剣の道を究められると真摯に信じる者もいる。その者にとってはそれが真実だ。それを否定することはできぬし、剣を究めることがないなどと、決して言えぬ。
 儂が確実に言えるのは、儂は己の剣を極めたいと望んでいることだ。
 そのために人を斬らねばならんのなら、斬る。
 迷いなくとは言わん。後で悔いることがないとは言わん。それでも、斬る」
「そんなものか」
 腑に落ちないといった表情が、半蔵の顔に浮かんだ。
「万人に等しい真など、ありはすまい」
 にやり、と十兵衛は笑った。
「……そうだな」
 頷いて半蔵は、白石を打った。
 カッ、と打った音が大きく響く。
 間を置かず、十兵衛は黒石を置いた。
「柳生殿」
 白石を置いて、言う。
「お主と同じく、儂も『鬼』を追っている」
「公儀の命か」
 ぱちと黒石を打つ。
「そうだ」
「始末せよと」
「そうだ」
「できるのか」
「できる、できないなど、忍にはない」
「そうであったな」
「されど」
「何だ」
「……」
 交互に小気味よい調子で石を打っていた手を、半蔵は止めた。
「儂には『鬼』がわからぬ」
 白石を置く。
「忍が剣人をわかるなど、できようはずもない」
「それは仕方あるまい」
 忍と剣人と、生き方は全く違うのだ。それに剣人側はともかく、忍が剣人の生き方を理解しては、役目を果たせなくなる。
「うむ」
 それを誰よりも承知している忍、服部半蔵は頷き、されど、とまた言った。
「わからずとも、僅かでも、知りたかった」
「何故か」
 黒石を十兵衛は置いた。
「忍の儂にはそれより他に、できることはない。
 結末を変えるすべなど、儂にはないのだからな」
 淡々とした口調だったが、そこには諦観と、拘泥とが共にあった。
 すいと、半蔵は立ち上がった。
「行くのか」
「雨も上がった」
 確かにいつの間にか、雨音が絶えていた。
「もう少しゆるりとしてもよいのではないか」
 十兵衛はちらりと盤に目をやった。白と黒の並びは、まだ決していない。
「時をおけばまた降り出す」
 荷を取り、二刀を差すと、半蔵は十兵衛に背を向けた。
「そうだな」
 障子を開け、廊下に出る。そこで半蔵は足を止めた。
「柳生殿」
「何か」
「島原の辺りで、『鬼』を見たという話がある」
 低くそれだけを告げると、足早に半蔵は去った。
「かたじけない」
 十兵衛の礼の言葉が届いたかどうかは、定かではない。


 残された十兵衛は腕を組み、脇に置いた己の二刀にその隻眼を向けた。
 それは十兵衛が一命を懸けるものであり、道標であるものだ。
 しかし同時に、人を殺める道具でもある。
 諦観と拘泥を含んだ半蔵の声の響きを、十兵衛は思い返した。

終幕


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