乾いた風が、鳴いていた。
 山々の間を走り抜けるその風は、冷気を宿している。
 その風のままに、心も冷たく乾いてしまえばいい、と思った。
「……恐い、か」
 低い、ともすれば風の音に紛れてしまうような低いくぐもった声が、しかし確かに耳の中に滑り込んだ。
「いえ……」
 背後に立つその人に、短く答える。
「無理はするな」
 何の感情も感じられない声。気づかれてしまったのだろうか……。
 山の谷間に隠れるようにひっそりとある小さな里。息を潜め、長い時を隠れて生きてきた者達の里。しかしもう、逃れられない。
 見つかってしまったから。そして、命が下されたから。
 なぜそれほどまでにその存在が許せないのか、そんな理由は理解している。だが、それでも思わずにはいられない。
 これから自分達が行なうことが正しいのかどうか、と。

「……奴を送ったのは失敗だったやもしれんな……」
 里長が「刀」を前につぶやいたのを聞いたのは、報告した日の夕暮れだった。
「行ってもらえるか」
 計画に「刀」は入っていなかった。「刀」の手を煩わせるほどの任ではなかった。だが長はあえて「刀」を入れた。
 信頼されていない。
 強く、それを感じた。
「狩り」に加わるのは初めてだ。そういう意味からいえば己は未熟者ゆえ、その腕を信頼されることはないだろう。だがおそらく里長は自分の心を信じていない……。そしてその判断はおそらく、正しい。

 梟の声がした。獲物を見つけたかのような鋭く、速い鳴き声。思わず短く、息を飲む。
「火に気をつけよ」
 低い声がまた、風にまじって流れる。
 わかっている。誰にも気づかれてはならない。ここはあってはならない地。いや、もともと「ない」ものなのだから。「ない」ものをあるべき姿に戻すだけなのだから。
 また梟の声。
 周囲に微かに感じられていた仲間の気配が動き出す。遅れてはならじと、己もまた駆け出していた。

 かつて天下を制したは豊臣。
 それを滅ぼし、次の天下を手に入れたは徳川家。だのに何故ここまで残党を恐れるのだろう。もうあれから180年あまりもの時が過ぎ去ったというのに。
 げんにあの村に暮らす者達は皆、ただその日その日を細々と平和に過ごしている。徳川の世を揺るがそうなどと考えている者などいなかった。
 ただ豊臣の残党というだけで、本当に滅ぼさなければならないのか?
「遅れるな」
 一声かけて、黒い影が追い抜いていく。闇にたなびく、紅い巻布。
 「刀」は、成人間もなくからその刀を血で染めてきたという。あの方は疑問を感じたことはないのだろうか……


 一方的な殺戮は、四半刻もかからぬ間にほぼ終わった。
 目を覚ますものはほとんどなく、皆何が起こったのか知ることもなくその命を断たれていった。
 それはある意味では幸せなことかも知れない。死の恐怖は、もっとも恐ろしく、抗し難いもの。それを味わうことなく逝けたのだから。
 だが。
 静かに寝息をたてて眠る少女を前に、彼は刀を構えたまま動けなかった。
 長かったような、短かったようなあの間に、「知って」しまった少女。「知らず」にいられればどれほどよかったことか。「知って」しまったことをどれほど後悔したことか。
――だが、逃れられはしない。
 誰かがそういったのが聞こえたような気がした。
 腕は勝手に動いていた。
 少女の体はわずかにびくんと動いたが、それきりだった。

 腕を動かしたのは、誰だ?

 誰でもない。

 誰でもない。誰でもない誰でもない。

 背に気配を感じる。いる。いや、いない。
「お主は自ら手を下ろした。自ら、だ」
 声……低い、声。
「ちが……」
「違わぬ。お主の意思だ」
 
 がっ

 肩を掴まれ、ふりむかされた。ほのかな月明りの中に、紅い巻布を首に巻いた、忍の姿が見える。
「選べ」
 低くくぐもった声が、命じる。
「ここで死ぬるか、それとも忍として生きるか」
「…………」
 忍の手に、抜き放たれた刀が見える。月明りを受けても、刃は光を放たない。
 そのことがかえって、それがもたらす死を強く見せつけている。
 鉢金の下に隠れた目に、どんな想いが宿っているのかはわからない。だがその声の響きの中に、微かな悲しみ……そして哀れみを感じたような気がした。
「死ねば、すべてから逃れられる。生きれば……おそらく同じ想いを積み重ねていくのみ」
 闇の中から聞こえてくる、重い言葉。
 こんな想いは……もう、たくさんだ。だが……
 だが。


「なぜ、生きられるのですか」

「死んだところで、何が変わる」

 変わらない。そう、変わらない。自分が死んだとしても、変わらない。何も。

「死を恐れはせぬ。だが、死にはせぬ」
 低くそういうと、「刀」は踵を返した。


「ご苦労だった」
 報告を終えた「刀」に、里長は短く言った。
「奴は、どうだ?」
「山は越えた。だが、まだまだだな」
「そうか」
 「刀」と「里長」二人の目に、若い忍を案ずる色が、微かに浮かんでいた。


 風が頬をなでる。冬も近付き、その風はつめたく、乾いている。
「お前、俺の手にかかって……よかったか?」
 風に向かって問う。

 ひっそりとした暮らしの中で、それでも幸せそうに微笑んでいた、娘。

――いいはずが、ない。
 その命を不条理に断たれ、いいはずがない。だが。
――誰かが手を下さねばならないなら、俺が下す。そして俺は、忘れない……すべてを……

風は、冷たさと乾きを帯びた風は、何も語らず、ただ駆け抜けていった。

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