柳生新陰流の江戸の道場の前に、一人の男が立っていた。 年の頃は三十路半ばすぎと言ったところか。細い垂れがちな目が特徴的な、柔和な顔立ちの男である。感じられる雰囲気も穏やかでやさしげなものであった。 老緑の袷に袴、羽織を着、大刀と脇差しを腰に下げている。だが、どこかそのなりが落ち着かないらしく、しきりに襟を正している。 「柳生、新陰流……これなら…………」 穏やかな表情のまま、男は呟いた。 月が妙にさえざえと輝く、冬の夜だった。 武家屋敷と町人街の調度境目の辺り、この時間ともなると人気は殆どなくなる淋しいところに侍が一人、家の影に身を隠すように立っていた。 六尺はある背の高い男である。年の頃は二十代半ば過ぎ。右目は盲ているのか、刀の鍔で作られた眼帯の下であった。 名を、柳生十兵衛という。新陰流を伝える柳生家の若き当主であり、自身は独自に改良を加えた新陰流・改の使い手であった。現在は柳生家の役目たる将軍家剣術指南役と共に、公儀隠密の役にもついている。 その十兵衛が、このような時間にこのような場所に一人いるとは、奇妙なことであった。 十兵衛は重い気持ちで月を見上げた。 青い冷たい光を放つ月は、全てを知っているようであり、何も知らぬように十兵衛には思えた。 溜息を一つ、つく。 息は白く凍り、しかしすぐにふうっと大気にとけてゆく。 ――お月さんよ…… 十兵衛は思考を打ち切る。 視界の端に、黒い影が一つ見えた。遠目からでもわかる、二本差しの侍の影だ。 ――……来たか…… 何とも言えぬ複雑な思いが、十兵衛の明き目に浮かんだ。 老緑の着物を着た侍はその場でじっと立っていた。誰かを待つように、じっと。 半刻ほどそうしていただろうか。侍の目に、怪訝な色が浮かんだ。 「おかしい………」 眉をひそめ、呟く。 「何が、おかしいか」 突然の低い声に、びくっと侍は目を向けた。 月明りの中に、六尺はある背の高い影が一つ。 「柳生様……」 侍からちょうど十間ほどの間をおいて、隻眼の侍は立っていた。 「やはり、お主か……佐々木兵馬」 厳しい目を向ける十兵衛とは裏腹に、兵馬は穏やかな、笑んだような表情を浮かべていた。 「やはりあなた様が来てしまわれましたか……せめて後一夜、待っていただきたかった」 「待てば一人、死人が増える」 「確かに」 少し淋しそうに、それでも兵馬は笑った。 「なぜこのようなことをした」 「ご存じだと思いますが」 「なぜ、このような手段を取った。御主の事情ならば、仇討は許されように」 「そのような大義名分の元に、なぜ奴らを斬らねばならないのですか」 月が、流れる雲に隠れた。 「思い知らせてやりたかった。 理不尽な、道理も何もない、理不尽な刃に死んだ、父母と同じ思いを、味合わせてやりたかったのです」 雲が、流れゆく。 再び地に投げ下ろされた光の中の兵馬の顔は、穏やかな、どこかさびしげな笑みを宿したままだった。 「さて……」 兵馬は腰の刀に手をかけ、すらりと鞘から引き抜いた。刀身が月の光を受け、冷たい光を放つ。 微笑んだまま兵馬は、青眼に刀を構えた。 「縛につけ、いまなら儂の力でなんとでもしよう」 両手をだらんと下げたまま、十兵衛はやはり低く言う。 「いいえ」 「なぜ」 「私と縁を持つ者達に、類を及ぼさぬためには、これよりほかには」 言うと、兵馬の顔から笑みが消えた。刀を構えたまま一歩、足を踏み出す。 ――……これよりほか、ないのか…… 十兵衛は腰から二刀を抜いた。柳生新陰流・改の構えを取る。 十兵衛が入門を許可したとき、兵馬はほっとした、とても嬉しげな表情を浮かべた。 「そんなに嬉しかったのか」 「私は、商人上がりでございますから」 自嘲するように目を伏せる。 この当時、武士の多くの生活は苦しかった。士農工商の身分制度の頂に立ちながらも、そのほとんどの者が借金に苦しんでいた。それは下層の者だけではなく、藩の政事をあずかる者、いやそれどころではなく、幕府の政務を司る者達でさえ借金に苦しんでいたのである。 そんな中、武士の身分を裕福な商人に売り渡すことで金を作り、借金を返す者さえもが現れ始めた。 しかし、そのようなことで武士となった者達を武士達は認めなかった。制度的には認めても、彼らは受け入れようとしなかったのである。 「そのようなこと、気にすることはない。剣の道を歩む者に貴賎はない。必要なのは魂だけよ」 「魂…ですか」 僅かに兵馬は目を伏せた。 十兵衛がその話を聞いたのは、四国への公務のついでに父親の墓参りに行って、帰ったすぐのことだった。 江戸で、辻斬りが起こっているという。いままでのところまったくの不定期に三名。いずれも旗本の家の者である。 「儂の耳に入れねばならぬほどのことか」 十兵衛は、報告をした者―裏柳生の忍の者にそう問うた。 「…下手人は、新陰流の使い手と」 「何?」 十兵衛の目が険しくなる。 「手練、というほどの者ではありませぬが、酔った侍を斬るぐらいならばできるようでございます」 「……このことは」 「先代以外に気付かれた方はおられませぬ」 先代とは十兵衛の養父、柳生宗矩のことである。十兵衛の力を見込んで隠居したが、その影響力はまだまだ大きく、時折不意に口を出すことがある。 「親父殿、儂に処理せよと」 十兵衛の口調が僅かに苦くなる。新陰流を学んだ者が辻斬りを働いているならば、宗矩は決してそれを許すまい。 誰よりも新陰流に誇りを持っているのが養父であることを十兵衛はよく知っていた。ただ彼に言わせれば、頑固で保守的に過ぎる部分がある、のだが。十兵衛が新陰流を改良したことさえ、認めるのにかなりの時間がかかっている。 「御意に」 短く、そして素早く忍は答える。 「……あいわかった」 暗欝な気分で、十兵衛は頷いた それから数日後、十兵衛は得た全ての情報から誰が下手人であるか、はおおよその推測をつけた。だが、その理由だけがわからない。 「何故……」 十兵衛は低く呟く。 下手人であろう男の性格を考えると、とてもそのようなことをしそうに思えない。何か、よほどの理由があるに違いない。 「その理由、わかりましてございます」 十兵衛の頭上から、声が降ってくる。 「なんだ」 視線を僅かに天井に向け、十兵衛は腕を組んだ。 天井裏から、忍は全てを語った。 十兵衛は終始無言であった。 一合。 それが限界だった。それとて、奇跡のようなものだった。 兵馬の腕では十兵衛の二の大刀を受けることはできなかった。 二の大刀は、兵馬の胴を薙いだ。 赤い血が瞬間噴き出し、しかしすぐに老緑の着物に吸われ、それを赤黒く染める。 致命傷だ。 兵馬はその場にくずおれる。 「佐々木……」 十兵衛は兵馬の体を支える。 「私は、佐々木などでは……」 傷の痛みに顔をしかめ、そこを左手で押さえてしかし、男はまだしっかりとした口調で言った。 「私の本当の、名は、藤兵衛と、いいます」 「喋るな」 「十五、年前…墨田川の花火の、夜……何もしていないのに…父も、母も、私の前で、あいつらに……」 十兵衛は藤兵衛という名の男を仰向けに抱くように支える。 「柳生様、私は、仇を討ちました。奴らを、斬りました。でも…嬉しく、ないのです。恐いのです。人を斬った、感触が、今でも、手に残っている…忘れられないのです……」 藤兵衛は、己の血に染まった右手で、十兵衛の襟を掴んだ。 「柳生様、私は、侍の身分を買えると知ったとき、剣を学べば、剣を使う、いえ、人を斬るお侍様の気持ちがわかると思いました。 仇を討つための、力を、得ることよりも、そちらの方が、望みだった! でも、わからなかった……! なぜですか、なぜ侍は刀をふるって、人を斬るのですか……なぜ、斬れるのですか……笑いながら、虫でも殺すかのように……!!」 「違う、それは違う……」 首を振る十兵衛に、藤兵衛は、うっすらと笑った。 「わかって、おります…柳生様は……違う…でも、そうなのです……お側で、教わるうちに、わかります…わかりました…あなたも…おなじ、ものを……」 十兵衛には、返す言葉はなかった。 声から、目から、力と光を失っていく男の言葉に、何も言えなかった。 「私には、わからない……それは、私が、さむらいではないから、で、ございますか、柳生様……?」 かくん、と藤兵衛の体から力が抜けた。 しかしその右手は、しっかりと十兵衛の襟を掴んだままだった。 「佐々木……」 呟いた十兵衛の声には、力がなかった。 何とも言い様のない罪悪感が、込み上がる。 「十兵衛様」 裏柳生の忍が、音もなく現れる。 「終わった。すべてな」 顔も動かさずに十兵衛は言った。 「その死体、いかがいたしますか」 「内々に処理する」 有無を許さぬ口調で強く言った。 「では、後は我らにお任せを」 「…………決して、人目に触れぬようにせよ」 厳しい口調で十兵衛は命ずると、襟を掴んだままの藤兵衛の右手をそっと離した。 その手は、あっけないほど簡単に外れた。 「御意」 藤兵衛の遺体を渡す。 「では」 その者は軽く十兵衛に頭を下げると、闇に消えた。 十兵衛は月を見上げた。 天頂から僅かに傾いた位置にある月は、何も知らぬ顔で、冷たい光を放ち続けて、いた。 柳生十兵衛は、この夜のことを終生忘れることはなかった。 また、この後、誰であろうと人を斬る度に、心の中にかげりを感じたという。 |