赤とんぼ


「おばちゃん、か」
「きゃっ」
 小さく声を上げて、静は振り返り、「あ」と別の意味での驚きの声を上げた。
「覇王丸様……
 やはりここに来られましたか」
「よくわかったな」
「ええ。覇王丸様を見かけたという話を追って参りました。
 それに、こちらには神夢想一刀流の道場がありますから」
「なるほど。たいしたもんだ」
 心底感心して、覇王丸は頷いた。
「見失うわけにはいきませんもの」
「まだ諦めないのか。もう国へ帰れ」
「いやです」
「頑固者め」
 覇王丸は苦笑する。何を言っても静は覇王丸を追って旅をすることをやめない。脅したりすかしたり、突き放しもしてみたのだが、決して諦めない。
 覇王丸を説得して国に連れ帰ろうというわけでもなく、ただその後を追ってくる。
 薄々とその理由に気づきつつあったこともあり、覇王丸も今は無理に静を止めようとはしなくなっていた。
 静の理由が覇王丸の思う通りならば、ついてこられるのも悪くはないと思うのだ。
 女の一人旅の危うさは、心配ではあるのだが。
「覇王丸様に言われたくありません」
 覇王丸の心境の変化を知っているのかいないのか、静はいつもと変わらない。黒目がちな目を少し細くして笑う。
「ふん」
 覇王丸は鼻を鳴らすと、神社の方に歩き始めた。
 静は、一歩分後ろをついてくる。
 覇王丸は歩調を緩めた。静が自分の隣に並ぶのを待って、問う
「お前も祭を見に行くのか?」
「ええ、せっかくですから」
 こくりと、静は頷く。
「あちらこちらのお祭りを見られるのも、旅の楽しみですわ」
「言うようになったな。
 旅に出て、何年だ」
「覇王丸様がお家を出られた後ですから……一年と、少しでしょうか」
「そうか……お前、いくつになった」
 ふと思いついて、覇王丸は問いを付け足す。
「女に歳を聞かれますか?」
 つんととんがった声で、しかし目では笑って、静は覇王丸を見上げた。
「それもそうだな。すまねぇ」
 乱暴に覇王丸は自分の頭をかいた。
「二十と二になりました」
 くすくすと声を上げて笑いながら、静は言う。
「……そうか」
 頭をかく手を、覇王丸は止めた。
 何か言わなければならない気がして静を見つめるものの、言葉が出てこない。
 言おうか、言うまいか。いやそもそも、己は何を言いたいのか。
――二十二、か。
 はっきりと形になるのは、静の年だけだ。
「覇王丸様?」
 むっつりと自分を見つめる覇王丸に、静は怪訝な顔で小首を傾げる。
「うん……ああ……うん……」
 ばりばりとまた乱暴に髪をかきむしると、覇王丸は言った。
「やっぱり、おばちゃんだなぁ、と、思ってな」
 言わなければならなかったのはそんな戯言ではないと痛いほどにわかっていながらも、そんなことしか口にできない己が、覇王丸は情けなかった。
「ひどい」
 今度は本当に怒った顔で、ぷいと静は顔を背け、しかし小声で言葉を付け足す。
「その通りですけれど……」
「……すまん」
 覇王丸は押し黙った。
 二人の前を、赤とんぼのつがいが体を繋げて、つい、つい、と飛んでいく。
 日が山の端にかかり、辺りが赤く染まっていく中を、つい、ついと、遠くへ。
「なあ静」
 沈黙に耐えられなくなり、また、覇王丸は口を開く。
「はい」
「体は、厭えよ」
「そこまでおばさんじゃありません。
 それに、気をつけていただきたいのは覇王丸様のほうですわ」
 尖った響きは僅かにあるが、もう怒ってはいないらしい。ほっとして、覇王丸は小さく笑った。
「はは、確かにな」
「いつ覇王丸様が行き倒れになるかと、静は心配で心配で……」
「……そっちかよ」
「だって、先だっては、あ、油虫を……」
「あれは、な」
 覇王丸は顔をしかめた。
 路銀もなく、思わず死を覚悟したほどの空腹に、つい目の前を走った生き物に手を出した事は、覇王丸一生の恥である。その所為で腹を下したおかげで、見かねた人に拾われて一命を取り留めたのだから、食って良かったのかもしれないが……
「もう二度と食わん」
「最初から食べないでくださいまし!」
「腹が減っては戦はできんと言うだろう」
「武士は食わねど高楊枝、でございましょうに。
 斬られ死ぬならともかく、お腹を下してのたれ死になんて情けないこと、私はいやですからね」
「…………」
 覇王丸は、ぐうの音も出なくなった。
 そんな覇王丸を見て、静は微笑んだ。
 夕日に似た懐かしさと寂しさを含んだ、優しい笑みを浮かべ、呟く。
「ほんとに……それ以外の覚悟は、私にはありませんからね……」
 見てはいけないものを―何故かはわからない、そういうことにしておきたい―見てしまった気がして、覇王丸は静から視線を逸らした。
「馬鹿だな」
 吐き捨てるように、言う。静にではない。自分にだ。
 行く道に悔いはない。迷いはない。ただ進むだけだ。
 それでも、道を進む己が賢いとは思わない。女から常の幸せを遠ざけていることを知っていながら、道を悔いることのない己は馬鹿なのだと、思う。
「ええ」
 さらりと静は頷いた。
「そうでなければいられませんもの」
 足を止めて覇王丸を見上げる。きっぱりと言い切った女の目には、先の寂しさは欠片もない。男を想う強い気持ちだけがそこにある。
 赤とんぼが一匹、その顔の前を横切る。
 二、三歩先に進んだところで、覇王丸も足を止める。
 静が、誰のことを言ったのかに気づいたのだ。
「……そうだなぁ」
 覇王丸は、静に背を向けたまま、頷いた。
 その口の端は、ぐいと大きく歪んでいた。
「静、今日は一緒に祭見物といくか」
 振り返り、にぃっと笑いかける。
「はい」
 嬉しそうに微笑んで静は頷いた。

 並んで歩く二人の前を赤とんぼが、群れて飛んでいく。
 あるものは何匹かで群れ、あるものはつがいで、あるものは一匹で。
 遠くから聞こえてくる祭囃子の音に踊るように、飛んでいく。
 祭の時を惜しむように。
 楽しむように。

                                      終幕

物書きの間トップへ
物書きの間トップへ(ノーフレーム)