花合わせ


 良い、天気である。
 晴れ渡った青空を、鳶が大きく弧を描き飛んでいる。ぴー、ひょろろろと鳴くその高い声が、心地よく青空に響いている。
 鳶が鳴き、弧を描く空の下を、男が一人、長い長い階段を上っている。
 名は、覇王丸。剣士である。顔も体もがっしりとした造りで、眉太く、口が大きい。人懐こい目をしているが、同時にどこか不敵だ。白黒だんだらの着物を身に纏い、肩に大振りの刀を担いでいる。腰にはこれまた大きな酒徳利が一つ。伸ばし放題の髪を百会のところで束ねているものの、収まりきらない前髪は、ぴんぴんと好き放題に跳ねている。
 覇王丸が上る階段の先には、寺がある。ひどく荒れた寺だが、まだ廃寺の域には達していない。人も住んでいる、はずだ。覇王丸の師、花諷院和狆という僧侶が、この荒れ寺、枯華院の主である。
 腰の徳利の中では、都で手に入れた極上の酒が入っている。和狆への土産だ。苦労して―主に、うっかり飲んでしまわないという苦労だ―ここまで持ってきた。
 師と酒を酌み交わすのを楽しみに、覇王丸は久しぶりに枯華院の門をくぐった。
 ところが、である。
 枯華院には人の気配がなかった。勝手知ったる古寺の隅々まで探してみたが、小柄な老僧の姿はどこにもない。
「なんだ、いねぇのか。
 町にでも出かけてるのかね」
 和狆が旅に出た様子はない。台所のかまどには朝炊いたと思われる飯の残りが入った釜があった。
 酒を飲みながら待っていれば、そのうちに戻ってくるだろう。土産は少々減ってしまうが、待ち賃と考えてもらえばいい。
 覇王丸は古寺でもっとも綺麗な部屋、つまり、この荒れ寺でもっともよく使われている和狆の部屋に入ると、腰を下ろした。台所から拝借してきた茶碗に酒を注ぐと、一息に飲み干す。
「かーっ、やっぱりいい酒だぜ」
 ぐい、と手で口元を拭う。師匠が戻ってくる前に、全部無くなっちまうかもな、などと思いつつ二杯目を茶碗に注ぐ。
――ん?
 茶碗を口元に持って行きかけた覇王丸の手が、止まる。
 その目は、和狆の文机の上に置いてある、桐の小箱を見ている。
「こいつは……」
 茶碗を置き、覇王丸は小箱を手に取った。間違いない、見覚えのある小箱だ。


 それは一年と幾月か前のこと。
 秋の長雨、その名の通りしとしと、しとしととしつこくしつこく雨が降り続いていた日のことだ。
 覇王丸は枯華院の一室で、閑を持て余していた。ごろんと横になり、書を眺めている。目は字を追っているが、内容はほとんど頭に入っていない。書を読むのに、飽きてきている。
 肌寒い雨の中では、剣の修練もままならない。部屋の中で大人しくしている時間の方が長くなる。
 部屋の中でも酒を飲んだり、師である和狆の蔵書を読んだりと、それなりにできることはある。覇王丸は酒を飲むのも、書を読むのも好きではあるが、満足に剣が振れない日が続くとさすがに気が滅入ってくる。
 本堂ならば素振りぐらいはできるが、「仏の前で刃を振るうとは何事か!」と、以前きつく和狆に叱られて以来、やりづらい。しかし、である。
――……こうなったら、ままよ。
 叱られても構うまい、本堂に行って来ようと起きあがった覇王丸の視界に、入った人影が一つ。
 牙神幻十郎、覇王丸の兄弟子である。もっとも、兄弟子といっても、幻十郎が覇王丸より先に枯華院に住み着いているから、端から見ればそういう関係に見えるだろうというだけのことである。実際に兄弟弟子として共に剣の研鑽をしているわけではない。
 幻十郎はまさしく、枯華院に住み着いているだけのように、覇王丸には見える。
 一人で剣の修行をしているのも、和狆に何らかの教えを受けている様子も見たことがない。たまに、和狆が幻十郎に話しかけているのを聞くことがあるが、それも指導といった風はない。
 それでも、幻十郎の剣の腕には凄まじいものがあった。お座敷流ではない、実際に人を斬る剣、斬ってきた剣だ。初めて出会った時に覇王丸はそのことを感じ取り、後に実際に幻十郎が刃を振るう様を見て、実感もした。一分の迷いもない、断の剣。だが未だ、稽古という形ですら、覇王丸と幻十郎は刃を交わしたことはない。
 それはさておき、覇王丸には理由がわからないが、幻十郎は枯華院に居る。
 不意に幾日も、時には一月近くも姿を消すことが幻十郎はあるが、今のところは必ずこの荒れ寺に帰ってくる。今回も、雨の中をふらりと出かけていき、またふらりと帰ってきた。
 その幻十郎が、何やら見ている。肩越しに覗き込んでみると、花札であった。
 幻十郎が博打を―ついでに遊郭通いも―好むことは覇王丸も知っているが、花札そのものを眺める趣味があるとは思えない。
「その花札、どうしたんだ?」
 なんの気なしにかけた言葉だった。幻十郎は己の関心が向かぬ限りは、誰に話しかけられようが口を開きもしない男である。答えなど端から期待していなかったが、今回は意外にもあっさりと口を開いた。
「この間手に入れたのを、思い出した。眺めていれば、暇つぶしにもなるだろうと思ってな」
「へえ、何だ、ただの花札じゃないって言うのか?」
「見てみればいい」
 どうやら、今日は幻十郎の機嫌は悪くないらしい。
「じゃあ、お言葉に甘えて……っと、こいつは」
 一枚――「桜に幔幕」の札を手にして、半ば呆れて覇王丸は低く唸った。
 手にとって、間近で見て初めてわかる。この花札は漆細工だ。つやを抑え、漆細工と遠目ではわかりづらくしている。十二の月にそれぞれ四枚、計四十八の絵柄が、蒔絵、沈金、沈銀と細工を惜しまずに描かれている。洒落を知った金持ちの趣味の代物だ。
 ふと見れば、幻十郎の膝の傍に、桐の小箱がある。木目を綺麗に揃えた、素朴な箱だ。札の凝った細工とは裏腹な箱の造りが小憎らしい。
 金持ちって奴ぁ、と馬鹿馬鹿しく思いながら、ぽん、と「桜に幔幕」の札を投げ出す。
「どこでこんなもの、手に入れた?」
「賭場に紛れ込んでいた道楽者が持っていた。払う金がないというから、代わりだ」
「代わり、ねぇ」
 別の一枚――「梅に鴬」の札を取って、ためつすがめつ眺め、覇王丸は苦笑する。
 幻十郎は何かよこせと言いはしなかっただろう。博打を好みはするが、それほど金に執着がある男ではない。金だけではない、万事に興味が薄い、覇王丸にはそんな風に幻十郎が見える。
 だが、幻十郎はこの風体である。身の丈高く、筋骨たくましい。顔立ちは整ってはいるが、穏やかというにはほど遠い。人を斬ってきた者特有の、目に見えない凄みもある。これで不機嫌の気でも見せれば、何も言わなくても根性のない道楽者なら身ぐるみ差し出すことだろう。
「一番、勝負するか」
「勝負?」
 剣か、と河豚毒を引き寄せる覇王丸に首を振ってみせ、幻十郎は一枚、花札を取った。
 「萩に猪」の札だった。

 雨は、まだ降り止む気配を見せない。しとしとと長く、冷たく、降り続いている。
「……貴様の番だ」
「慌てるなって」
 ごろりと覇王丸は寝そべると、手札と場札を見比べる。
――…………ちぃ。
 太い眉毛をぎゅっと寄せる。
 フン、と小さく幻十郎が鼻を鳴らした。
「なんだよ」
「貴様は博打に向かんな」
「んなこたねぇ」
 そうは言ったものの。
「かぁっ、俺の負けかぁ」
 起きあがり、乱暴に覇王丸は髪を引っかき回した。
 覇王丸の負けである。それはもう、完膚無きまでに。
「やはり、向かんな」
 場に並んだ札を一瞥し、幻十郎は言う。勝ちはしたが、別段嬉しがる様子はない。
「……」
 覇王丸は憮然とした表情を浮かべるが、ここまで綺麗に負けては何も言い返せない。
「さて、負けたからには……」
 覇王丸に、目を向ける。細い目が、剣呑な光を宿して更に細められたように覇王丸には思えた。
「今、一文無しだぜ」
 軽口を叩きながらも、悪寒―幻十郎に初めて会ったときにも感じたそれ―が、覇王丸の背筋を走る。
「貴様から金を取ろうとは思わん」
「へぇ、すまねぇな」
 気のせいか、雨の降る音が大きくなったようだ。
「その命で払えばいい」
 幻十郎はこともなげに、言った。
「……冗談」
 口ではそう言いつつ、覇王丸は幻十郎が本気なのを見取っていた。
 脇に置いた河豚毒に手を伸ばす。
 幻十郎がその愛刀、梅鶯毒に手をかける。
 花札が並ぶ座布団を蹴り上げ、どんっ、と幻十郎が足を踏み出す。白刃が、鞘走る。
 花札が宙に舞い、きらきらと煌めく。その中を、白銀の一閃が走る。
 鉄(かね)がぶつかる鈍い音が、雨音の中に重く響いた。
「冗談、きついぜ」
 ぐいと唇の端を吊り上げ、覇王丸は苦笑してみせた。
 喉を狙った幻十郎の一撃を河豚毒の柄で受け止めている。梅鶯毒の切っ先から喉元まで一寸、無い。実に、きわどい。
 刃の向こうに、幻十郎の顔がある。薄く、唇が開く。笑みの形に。その眼に、熱が宿っているのが見える。
 喜悦を含んだ、狂気。
 初めて覇王丸が見た、強烈な幻十郎の感情だった。その感情の源、あるいは対象となっているのが己であることを、覇王丸は直感的に理解した。
 我知らず、覇王丸は唾を飲み込む。額を汗が伝うのがわかる。恐怖とも歓喜ともつかぬ、奇妙な感情の高揚がある。
「ここで、やるか……?」
 河豚毒を握る手に、力を込める。梅鶯毒の刃と河豚毒の鍔がこすれ、小さく嫌な音があがった。
「…………」
 幻十郎の眉間に、僅かに皺が寄る。その手から力が抜けたのが、刃を通して覇王丸に伝わる。
 幻十郎は刃を引き、鞘に収めた。
「興が削がれた。
 だが、暇つぶしには、なった」
 言った幻十郎の顔には、今し方の狂気は既に無い。
「片づけておけ」
「片づけておけって……」
 覇王丸の反論は聞く耳持たぬ、とばかりに幻十郎は部屋を出て行ってしまった。また町に出かけるのだろう。
 勝手な奴、とぼやいて覇王丸は散らばった札を見回した。
「ん?」
 散らばった幾つかの花札が、斬られている。宙に舞ったところを一閃されたか。
「あーあ、もったいねぇことしちまって」
 斬られたものから拾い集める。幻十郎の言うことを聞くのはしゃくだが、散らかったままにしておけば、結局和狆に片づけさせられるに決まっている。
 斬られた花札は「松に鶴」、「桜に幔幕」、「芒に名月」、「柳に小野道風」、そして「桐に鳳凰」。
 全て見事に両断されている。
「……五光、ね」
 肩をすくめ、覇王丸はそれらを桐の小箱に入れた。


「師匠が取っておいたのかねえ」
 箱から出てきた昔通りの花札―斬られた五枚もそのままであった―を眺め、覇王丸は独り言ちる。
 あの雨の日の事は、今でも鮮明に覚えている。それから数日後、雨が上がった日に再び、今度は共に真剣を抜いて対峙した。あの時は覇王丸が敗れ――幻十郎は破門された。
 それから幻十郎の顔は見ていない。今、どこでどうしているだろう。
――何も変わっちゃいねえんだろうな……
 花札を小箱に戻し、文机に置く。
 賭場か、遊郭か。どこか旅をしているのか。今どこでどうしているかはわからない。だが、いずれ幻十郎と己が三度対峙することを覇王丸は確信していた。以前の借りを返したい、そう覇王丸が望むからであり、なにより、あの時の幻十郎の目が確信させるのだ。
 同じ目を、二度目の対峙の時も幻十郎は覇王丸に向けた。
――必ず、幻十郎は俺の前に現れる。
 その時は、そう遠くはない。理由も何もないが、予感がある。
 茶碗の酒を、ぐっとあおる。
――楽しみだぜ。
 覇王丸は不敵に、笑んだ。

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