風戯


「玉やぁ〜、玉や。しゃぼん〜玉や」
 町中を流れる川の岸辺を、天秤を担いだ玉屋(しゃぼん玉売り)の声はもう遠い。
 遠くなっていくその声を探し求めるかの如く、一つ、二つと、しゃぼんの玉があるかなしかの風に流れていく。
 流れる玉はその内に、ぱっとはぜて消える。消えたはじから、次々に新たな玉が現れ、漂い、はぜ消える。
 しゃぼんが漂い来る元には覇王丸の姿があった。
 川縁に植えられた柳の木の下で、わらを咥えている。手に持った小さな竹筒に、時折わらをつっこんでは、また咥える。僅かにその頬が動けば、わらの先から玉が、生まれる。
――ふき玉や、しゃぼん玉、吹けば五色の玉がでる……か。
 漂っていくしゃぼんの玉を目で追いながら、覇王丸は思った。
 透き通った玉は、五色、いやもっと多様な色を宿して漂い、はぜる。
 生まれてすぐにはぜ消えるものがあれば、見えなくなるほど遠くまで漂っていくものもある。ゆうらゆうらと高く高く昇っていくものもある。
 吹き方一つで大きさも変わる。一吹きで小さな玉が幾つもできることもあれば、同じように吹いても一つしかでないこともある。
――無患子に、灰を混ぜて溶かした水といっていたが……それだけでこんな玉ができるってのは、おもしれえな。
 最初は子供の遊びだと思っていたが、いつの間にか覇王丸はしゃぼん玉吹きを楽しんでいた。
 しかし、六尺近い身の丈の男が、しゃぼん玉を吹く様というのは、なかなかに奇妙な様ではある。覇王丸にもその自覚はあった。だからこそ、人気のないこの場所を選んで吹いていたのである。
 そうだったので、あるが。


 透き通った、それでいていくつもの色を宿す玉が、漂ってくる。
 かと思うと、いきなりはぜて、消える。
「きれい……」
 思わず足を止め、静は声を上げた。
――確か……しゃぼん玉といったでしょうか。
 静の前で、しゃぼんの玉は漂ってきては消え、あるいは更に漂い流れゆく。
 五色、七色、幾つの色が宿っているのか、わからない。見ている間にくるくると色は変わる。あるいは、ぱっとはぜ消える。
 静が触れてみれば、やはり、はぜる。
 ほんの今まであったはずの玉が、音もなく。玉の輪郭がうっすら残るが、それも刹那のこと。
 あまりにもあっけない。もう一つ、静は先よりもそっと触れてみたが、やはりしゃぼんの玉ははぜた。
 更にもう一つ、触れようとして、静は止めた。
 触れなくてもはぜて消える儚い玉を、戯れに触れて消してしまうことが、躊躇われた。玉がゆくところまでゆくのを邪魔をするのは悪いことの様に感じられる。
――……おかしいこと。
 そのような躊躇いを感じる自分に苦笑にも似た思いを抱く静の前を、ふわりふわりと玉が漂っていく。はぜて消える。
 無言でその様を見つめていた静は、なんとはなしにしゃぼん玉が漂ってくる方へ目を向けた。
――そういえばこの玉……何処から来ているのでしょう……?
 気になって、静はしゃぼん玉の源を求めて歩み始めた。


――結構、長持ちするもんだな。
 竹筒の中のしゃぼん液は、まだたっぷり残っていた。
 一方覇王丸は、細いものを吹き続けるのに慣れていないこともあって、少し口が疲れてきていた。
――そこらの子供にでも、やるか……
 思いつつも、ついついもう一吹き。
「……覇王丸様?」
「っ!?」
 横合いから掛けられた知った声に、吹く力が強くなった。小さなしゃぼんの玉が十ばかり、勢いよく飛んでいく。
「し、静?」
 わらを口から離した覇王丸の視線の先には、しゃぼんの玉を追ってきた静の姿があった。
「お久しゅうございます」
「そうだな。二月……ぶりか……?」
「はい。この前は尾張でした」
「あぁ、そうだったな」
「しゃぼん玉、ですか?」
 小首を傾げ、漂っているしゃぼん玉を静は見上げた。
「見りゃわかるだろうが」
 覇王丸の口調は、自然とぶっきらぼうなものになっていた。少々気恥ずかしいのである。
 人通りが少ないところを選んでしゃぼん玉を吹いていたのだが昼間なのだから、人に会うかも知れないと、それはまあ仕方がないとは思っていた。
――だがよりによって静とはな……
 悪いとは思わない。むしろ、知らぬ誰かよりも静で良かったと思う。それでも、いや、それだからこそ、何やら背筋がむずがゆい。
 苦笑しながら静を見やれば、静も微笑んでいる。
 覇王丸が気恥ずかしく思っているのが、静にはわかっているのだ。大の男がしゃぼん玉を吹いているのは、少し、似合わないと静も思う。
――でも覇王丸様、楽しそうだった。
 しゃぼん玉を吹いていた覇王丸の顔は剣を振っている時に近いものに、静には見えた。声を掛けるのを、僅かに躊躇ったほどに。
「お前も吹いてみろ」
 竹筒にわらを刺して、静に渡した。
「いいんですか?」
 静の表情が、輝いたように覇王丸には見えた。
「あぁ」
「では、ありがたく」
 一回、二回と液に浸してから、静はわらを咥えた。そっとしゃぼん玉を吹いた。小さなしゃぼん玉が一つ、二つと飛んでいく。
「きれい……」
「やったことがあるのか?」
「いいえ。初めてです」
 首を振ると、静はまた、しゃぼん玉を吹いた。その頬が少し紅潮している。
 珍しい表情だと、覇王丸は思った。静は子供の頃からしっかりとした娘だったこともあって、髪上げが終わって以降は特に、こんな少女のような表情を浮かべたところは、少なくとも覇王丸はほとんど見たことがない。
――俺は……仕方がないかもしれないな……
 先とは違う意味で苦く、ひっそりと、覇王丸の口元が歪んだ。
 その表情に気づいているのかいないのか、静が、俯いた。
 今までと違って、ゆっくり、ゆっくり吹きはじめる。それに合わせて、わらの先で、ゆっくり、ゆっくりとしゃぼんの玉が大きくなる。俯いたのは、大きなしゃぼん玉を作るためだったようだ。
 が。
「……あっ」
 僅かな風か、それとも静の息が強かったのか。玉は飛び立つ前にはぜた。
 静は、わらをまた、液に浸けた。そしてもう一度、ゆっくり、ゆっくりと息を吹き込む。
 ゆっくり、ゆっくりとしゃぼんの玉が大きくなる。
 覇王丸は、しゃぼん玉を壊さないように、静に気づかれないように、ほんの少し体をずらした。
 さやかな風を、遮ろうと。
 覇王丸が風を遮った甲斐あってか、今度は直径三寸ほどにまで玉は膨らんだ。
 そ、と静がわらを僅かに動かすと大きな玉は、ゆらと離れる。ゆうら、ゆらと漂っていく。
 ふわりと風に乗り、近くの倉の屋根まで舞い上がり。
「あ」
 はぜて、消えた。
 思わず覇王丸は、静を見た。
 残念そうな、寂しそうな、顔。覇王丸が予想した通りだった。
 だがすぐに、もう一度、静は大きなしゃぼん玉を吹きはじめた。もう一つ、覇王丸が予想した通りに。
 静の顔を、覇王丸は知っていた。
「……ふふん」
「はい?」
 鼻を鳴らして笑った覇王丸を、怪訝に静は見上げる。膨らみかけたしゃぼん玉は、しぼんで消えた。
「いいや」
「?」
 静は小首を傾げるが、空とぼける覇王丸を追求しても無駄だと言うことはよくわかっている。すぐに諦めると、もう一度わらを咥えた。言葉で追うのが叶わないのなら、静は動くだけだ。
 ゆっくり、ゆっくりと、しゃぼんの玉を吹く。
 二回目で慣れたのか、今度はすぐに大きなしゃぼん玉ができあがり、ゆらと飛んだ。
 さっきのしゃぼん玉と同じように、ふわりと風に乗り、屋根まで舞い上がり――
「あっ」
 今度は、屋根を越えた。
 そこまでは、二人にも見えた。
 そこから先は、よく見えなかった。透き通った五色の色を宿す玉は、それだけ遠くへ飛んだから。
 だが覇王丸は、嬉しそうな静の笑みを見た。
 静は、覇王丸の満足げな笑みを見た。
「やったな」
「はい」
 二人は互いに、頷く。
 しゃぼん玉が飛んだ、青い空を見上げたまま。

                        終幕

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