冬のからっ風が吹き抜ける河原に、幼い少女と大男の姿があった。 少女の名はアキ。伊賀、柘植の里の長の孫娘である。 大男の名は鬼若。アキに忠実に仕える伊賀忍である。 二人は普段、アキが慕う水戸黄門こと徳川光圀の諸国漫遊を影から助ける旅をしているのであるが、今はそのお役目からほんの一時、離れているようであった。 糸巻きをしっかり握ったアキは、三間ほど離れた位置に立つ鬼若に大きな声をかける。 「鬼若、「はい」って言ったら、離すんだよ」 「はい、アキ様」 アキの手の糸巻きから伸びる糸は、鬼若の手の奴凧と繋がっている。 鬼若がごつごつとした大きな手で持った奴凧は、どこにでもあるごく普通のものだ。しかしこの大男の手にあると、随分と小さい物に見える。 ちんまりと凧を持つ鬼若の表情は堅い。下手に力を入れて凧を壊してしまったら大変だ、と本気で思っているのである。鬼若は忍の間では「風の鬼若」という二つ名で知られた腕利きだが、大きな体に似合わず少々心配性な、良いように言うならば心優しい男であった。 一方、アキはそんな鬼若の緊張にも気づいた風はなく、実に楽しげだ。光圀のために働いている間は、大人びた顔も見せるアキであるが、今の表情は年相応の子供らしさに満ちている。頬が紅潮しているのは、冬の冷たい風の所為ばかりではない。 アキが、ぴょんと一跳ねで鬼若に背を向けた。 鬼若が奴凧を高々と掲げる。風になぶられた凧の尾が時折その顔を撫でるが、鬼若はただ真っ直ぐにアキの背を見つめている。主の声を聞き漏らすまいと待つ様は、大きな犬のようでもあった。 「行くよ、鬼若!」 はい、アキ様。そう鬼若が答えるより早く、アキは吹き付ける風に向かって駆け出していた。 まだ幼いとはいえ、アキは忍である。その足は速い。決して足場が良いとは言えない河原を、軽やかに走る。 灰色の河原、流れる水の青、揺れる枯れた草の薄い茶。その中を駆けるアキの着物の紅梅色が、殊更に鮮やかに映える。 糸巻きからアキの左手を介して凧に繋がった糸が、ぴん、と張った。 「鬼若!」 「はい、アキ様!」 言われた合図ではなかったが、鬼若はぱっと両手を離した。途端に、奴凧は風を受けてすいっと天に吸い込まれるように舞い上がった。駆けるアキの手の糸巻きからはしゅるしゅると糸がほどけ、凧はどんどん高く昇っていく。 「アキ様!」 なお駆け続けるアキの背に、再び鬼若は叫んだ。駆けることに夢中になっていた少女が、我に返ったように振り返る。 「あっ」 アキが振り返ったまさにその時、風のままに昇り続けていた凧がふらりと大きく傾いだ。ほどけるままの糸が、凧と糸巻きの間でたるんでしまっていたのだ。 慌ててアキは糸を手繰るが、少女の小さな腕では、しかも糸巻きに巻きながらでは追いつかない。凧はふらふらと酔ったように揺れ、いつ落ちてもおかしくない。 アキの顔が、ほんの少し、泣きそうに歪んだ。 「……おに」 小さく、アキの唇が開いた。しかしその名を最後まで口にするより早く、ふっと影が少女の上に落ちる。 そっとアキが見上げれば、そこには鬼若の姿があった。 見慣れすぎるほどに見慣れた、誠実で優しい、いつも一緒の大男。 「鬼若」 大男の名を呼ぶアキの顔は、もう明るい。 「はい」 ぐい、ぐいと糸を手繰りながら、鬼若は大きく頷く。 「糸を」 「うん」 アキも頷き返すと、手繰られた糸を糸巻きに巻き取っていった。 やがて、たるんでいた糸がぴんと張り、奴凧が安定を取り戻したときには、アキの顔には再び笑みが戻っていた。 「あの二人、何をしている?」 娘は、怪訝に柳眉を寄せた。 美しい娘である。肌の色白く、髪は烏の濡れ羽色であり、唇は、紅い。だがその美しさは、俗世の者とは異なっている。澄んだ清水が深い山奥でしか得られぬのと同じく、多くの人と交わらぬ中で磨き上げられた、近寄りがたさのある美しさであった。 名は、桔梗。徳川幕府に恨みを抱いていた闇の布袋なる老人が率いる水軍一族の一人、だった。 既に幕府への恨みを抱いた年月と共に水軍は海へと消え、今は闇の布袋の孫娘であった桔梗一人が生き残っている。 以来、桔梗はあてど無い旅を続けていた。その途上、鬼若とアキがこの河原にいるのを見かけた。 水軍の徳川への恨みは、当然の如く光圀にも向けられていた。故に光圀を守るアキ達と桔梗は刃を何度か交え、顔も知っていたのである。 その二人が、光圀もいないこのようなところで何をしているのか。桔梗には理解しがたい光景である。 「凧上げだ」 一間ほど離れて娘の隣に立つ壮年の男が答える。ごく、当たり前のように。 だが、ほんの一呼吸前まで、男の姿など無かった。 「夜叉王丸……」 驚きを警戒と不機嫌さにすり替え、険しい眼差しを桔梗は男に向けた。 「久しいな、娘」 笑んで娘に答えていながらも、夜叉王丸と呼ばれた男は桔梗とは別の意味で近寄りがたい雰囲気を宿していた。昼日中だというのに、男のまわりだけ影が落ちているような、冬のそれとは異なる冷気を纏っているような、まるで人ではないような気配。それは夜叉王丸が幻術を得手とする、はぐれ忍であるからかもしれない。 はぐれ忍の身ではあるが、夜叉王丸は鬼若とは別の形、別の理由で、アキを守り続けてきていた。それ故に、桔梗とも戦ったことがある。 「こんなところで何をしている」 「ものを知らぬ娘がいたのでな、一つ、教えてやろうと」 「凧ぐらい、知っている」 馬鹿にするな、と桔梗の声が、その全身が言っているのを感じ、夜叉王丸は心中秘かに笑った。 「肝心なことは、あの二人が、なぜこんなところで凧上げをしているかだ。 水戸の隠居を守るのが役目であろうに」 「ならば最初からそう言えばよかろう」 からかいの意を秘かにこめて言ってやれば、夜叉王丸の思った通りに桔梗は柳眉を逆立てた。 「貴様に言う理由はない」 聞こえぬ振りをして、夜叉王丸は凧上げに興じるアキ―血の繋がった姪であり、夜叉王丸が生き、戦うたった一つの理由―を見やる。 「大方、「鬼若に教える」為にアキ様がやっていらっしゃるのだろう」 「教える?」 「我らは忍。あのような遊びとは無縁で育った。 だがアキ様は里を離れて育ったからな。普通の忍の子よりは、色々と知っておられよう」 「…………」 夜叉王丸の言葉に、桔梗は押し黙った。 桔梗は忍ではないが、世の影に生きてきた。人並みの子供の暮らしなど、ほとんど知らない。その点では夜叉王丸や鬼若達忍と近い生き方をしてきている。 ――凧上げ……か…… 凧を上げる二人に再び目を向け、今度は声に出さず呟く。 一族の長であった闇の布袋の孫娘という桔梗の境遇は、アキとも共通するものがある。 アキの出自を知るはずもない桔梗だが、それでも奇妙にアキに拘ってきた。何か感じてのことだったのやもしれないと、桔梗の横顔を盗み見ながら夜叉王丸は思った。 「……アキの方が楽しんでいるな」 風を受けた奴凧を巧みに操って、どんどん高く上げていくアキは、遠目ながらも本当に楽しそうに、桔梗には見えた。到底、傍らの鬼若にものを教えている風には見えない。もっとも鬼若自身はまるで気にした風もなく、にこにこと己が主を見守っている。 「それでよい」 忍である鬼若は、子供の頃に凧を上げて遊んだことなどないはず。同様の育ちであった夜叉王丸も同じだ。 ならば、アキはどうか。 母とともに伊賀は柘植の里を出て育ったアキはどうであったか。 桔梗にああは言ったが、実際はアキが普通の子供のように生きてきたとは夜叉王丸は思っていない。 おそらくは親子二人隠れ、ひっそりと生きてきたに違いない。その様な生活で、凧を高々と上げて遊ぶなど、できただろうか。 なればこそ。 「アキ様はまだ子供でいて良い年。だからあれで、良い」 凧上げに興じる二人を見やったまま、夜叉王丸は言った。その横顔を、桔梗がじっと見ているのに気づく。 不機嫌ささえも忘れた、珍しくも普段よりずっと年頃の娘らしい表情だと思いつつ、珍しいついでに問いかける 「なんだ」 「貴様、その様な顔をするのだな」 桔梗に言われて初めて、夜叉王丸は己の口元が緩んでいたことに気づいた。久しく浮かべた覚えのない、忍ではない顔だったろう。 「忍の顔を真に受けるか」 つるりと顎を撫でると、夜叉王丸は低い声を出した。照れ隠しだと己でもわかっている。珍しいのは、今日の桔梗だけではないようだ。アキと鬼若の戯れに、自分達もあてられでもしたのか。 「忍の顔なら、真には受けぬ」 だが、と桔梗の紅い唇が動くのを、夜叉王丸は見ていた。 してやったりと言いたげに、優美な弧を描くのも。 「忍の顔かどうかぐらい、わかる」 「鬼若、面白いでしょ」 「そうですね、アキ様」 視線をアキへと向け、大きく鬼若は頷いた。 「……何、見てたの?」 「珍しい鳥を、二羽」 「……ふぅん」 小首を傾げ、アキは鬼若が見ていた方を見た。 「もう、いないね」 「はい」 「見たかったな」 「今度見つけたら、すぐにお知らせします」 「きっとだよ」 糸巻きを持っていない左手で鬼若の着物の裾を引き、アキは大男を見上げた。 「はい」 鬼若は大きく、頷いた。次は二羽、いや二人はアキの前に現れる。そうであればいいと、思いながら。 そんなしみじみとした鬼若に、アキはさっきとは逆に小首を傾げた。目を伏せ、考えを巡らす。 「鬼若」 「はい?」 「持ってみる?」 視線を上げて糸巻きを差し出すアキに、慌てて鬼若は首を振った。 「いいえ、私は、見ているだけで十分楽しいです」 あまりに必死な様子に、アキは吹き出した。 「大丈夫だよ。簡単簡単」 「いいえ、私は……」 「持って」 「……はい」 ほんの少し強く言われただけで、あっさりと鬼若は折れた。アキには、逆らえない。 主だからというだけでは、決してない。 アキの小さな手が差し出す糸巻きを、鬼若の大きな手が受け取る。 「うん」 満足した顔でアキは大きく頷き、奴凧を見上げた。 「時々糸を引っ張るんだよ。そうすると安定するし、高く上がるから」 「はい、アキ様」 何処かえらぶったアキの説明を聞きながら凧を見上げ、鬼若は言われたとおりに糸を軽く引いた。 ひょこん、と一瞬下がった奴凧は、鬼若が糸を戻すのに合わせてまたすいと昇る。 「うまいうまい」 「はい」 律儀に答えながら、鬼若はちらりと、こっそりと、アキに目を向けた。 上気した顔で凧を見上げているアキの顔は、何処にでもいる子供と変わらない。変わらないというのに、アキにはいつも見られるわけではない表情だ。 なぜか、と問いを思い浮かべるまでもない。鬼若にはわかりすぎるまでに理由はわかっている。 それでも、アキがいつもそんな顔をしていられればいいと、鬼若は秘かに願わずにはいられない。その為ならば、アキの願うことはできる限り聞き届けたいと、鬼若は思うのだ。 それがどんな他愛のないことであっても。 「鬼若、ちゃんと凧を見てないと駄目だよ」 「はい、アキ様」 勘の良い主に、慌てて鬼若は奴凧に目を戻す。 アキに気を取られていた所為か、糸が少し、たるんでいる。 「あっ」 「ほら、鬼若、糸糸!」 「は、はいっ!」 慌てて鬼若は糸を手繰った。あまりにも慌てた様子に、けらけらとアキが笑う。 「鬼若、凧、下がりすぎだよ〜」 「は、はい、アキ様!」 さらに慌てる鬼若に、アキの笑う声がさらに大きく冬の空に響いた。 冷たい風と、アキの笑う声を受け、奴凧は青空を舞う。 酔っぱらいの如くふらつきながらでは、あったが。 終幕 |