跋 明月


 ぱん、ぱん、ぱん。
 忍達の気配が消えた後、蒼月の後ろから、大きく手を打つ音が、静寂を破った。
 蒼月は振り返らない。
「お見事、流石だな」
 知った声がしても、振り返らない。
「やって…くれましたね」
 背を向けたまま、言う。
「最高の意趣返しだと思わんか。風間の手で、風間の狙いを壊すってのは」
 蒼月が振り向かないことを気にもせず、『といち』は機嫌よく答えた。
「狙っていた…のですか」
「さぁてな」
 肩をすくめる気配と共に、ごくりと何か―酒を飲む音。
「よく気が付いたな」
「甲賀が仕掛けたのには、すぐ。葉月の安否は、風が」
「ほおう」
「返して…いただきましょうか」
 緊張に、空が固まる。
「もうそろそろだ」
 風が、梅の木の周りを渦巻く。
 ほのかな光がその風に導かれるように木の幹から放たれる。微かに緑がかった、白い光だ。
 光の中に黒い影が浮かび上がる。
 長襦袢を纏った娘の姿をした影。
 影は月明りに照らされ、眠る娘の姿を、影からくっきりと浮かび上がらせる。
「この娘は木を性としている。運がよかった」
「何と…言いました?」
 些か剣呑な響きが、蒼月の声に宿る。
「別に」
 笑みを含んだ声が戻る。
 ふ。
 小さく笑う気配。
 緊張が解ける。
 蒼月は葉月を抱き止めると、倒れた火月の側に寝かせた。
「……………」
 横たわる二人を見つめる蒼月の顔は、月さえも見えていない。
 『といち』は無言でまた、酒をあおる。
「弟と、妹を、頼みます」
 ややあって、蒼月は顔を上げた。
「ん?」
「それぐらい…構わないでしょう」
 小気味よく響く澄んだ声には、意地の悪い響きが混じっていた。だが、冷たいものは、そこにはなく。
「やれやれ……」
 一つ溜息。
 酒の匂いが、梅の香に溶ける。
「心得た」
 苦笑が幾らか混じっていたが、真面目な顔で、『といち』は頷いた。
「甲賀衆の名にかけてな」
「では」
 水が蒼月の周りを、月光にきらめきながら踊る。
「一言ぐらい、かけてやらんのか?」
「生きていれば…いつか」
 踊る水はいつしか流れ落ちる水柱と化す。
 その水が跳ねて、火月の顔にかかった。
「ん……うん…?」
 声を上げ、ひょっこりと火月は身を起こす。
 目をぱちくり。
 きょろきょろと辺りを見回す。
「葉月!」
 すやすやと気持ち良さそうに眠っていた少女は、兄のその声に、ぱっちりと目を開いた。
「火月兄さん」
 にっこりと微笑む。まるで何もなかったかのように。
「蒼月兄さん」
 当り前のように、葉月は今にも水の中に消えそうなもう一人の兄に、無邪気な笑みを向けた。
「兄貴! ……つっ」
 立ち上がりかけ、火月は体を走った痛みに顔をしかめた。
 一つ、笑み。
 それだけを見せて蒼月は水に消え、水は月光に弾けるように、消えた。
「兄貴……」
 怒ったらいいのか、泣いたらいいのか、喜べばいいのか決めかねているような複雑な表情が、火月の顔に浮かんだ。
「火月兄さん…」
 少し心配そうな表情で、葉月は火月の顔をのぞき込む。
「……………」
「兄さん」
 くしゃり
「そんな顔、すんなって」
 妹の頭を些か乱暴に撫でて、火月はにかっと笑った。
 何かを吹っ切ったように、明るく力強く。
「生きてれば、いつか」
「いつか?」
「いつか、な」
 ひょい、と立ち上がる。だがすぐ、
「い…ってぇ……!」
何とも情けない声を上げ、うずくまる。
「火月兄さん、だいじょぶ?」
「兄貴…手加減するなら、もうちょっとうまくやって欲しかったな……」
 それでも笑みを、火月は妹に向けると、今度は少しそろそろと立ち上がった。
「行くぜ」
「うん」
 手と手をしっかりと握りあう。
 そして兄と妹は、駆け出した。


「若い者は元気なことで」
 皮肉ともからかいともつかぬその言葉とは裏腹に、あたたかい目で兄妹を見ながらゆっくりと男は、その後を、追った。
                                                  幕

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