(メストムック収録バージョン)
ねっとりとした空気が流れている。周囲闇、何もなく濁々とした霧が辺りを包んでいる。ここは現世の者たちがいう魔界である。憎悪や怨念、ありとあらゆる負の感情が辺りを包んでいた。亡者のすすり泣きだけが響いている。
天草四郎時貞の魂も時折、現世での恨みの声を吐きながら、他の亡者と同じように混沌とした闇に溶け込み宙を漂っていた。そんな彼の意識の中にふいに別の意識が飛び込んできた。
「現世での恨みを晴らしたいとは思わないか、天草よ」
魔界を漂い、かなり長い時間が経過したが、何も聞くこともなく、見ることもなかった。それが普通だと思っていた。
「わたしを呼ぶのは誰か」
天草もここに来て初めて言葉らしい言葉を発した。懐かしくも、けだるい我が声。
「我が名はアンブロジァ。お前らが神と呼ぶものよ」
それを聞いた天草は態度を変えることなく、
「神?お前の名は我が主のものとは違う。主の名は…」
「思い出せ、あの屈辱を。幕府はお前の信仰心を利用したのよ。自分の信じる道を貫き通すお前の心を。殺されるいわれはないよのう。さあ、思い出せ、天草四郎時貞よ!」
天草の朦朧とした意識の中に鮮やかな映像が流れ込んで来た。それは、島原で起きた戦いの様子だった。島原城が燃え、同志の断末魔の悲鳴が聞こえてくる。絶え間なく降り注ぐ銃弾、子供の泣き声、祈り……それは天草にとって一番悲痛な過去だった。
「わ…わたしは…」
天草は激しく動揺した。
「復讐してやりたいと思わんか?我ならお前に力を貸してやることができる。さぁ、我と共に来い天草よ」
「口惜しい…。力、力が欲しい。本当にわたしに力を与えてくれるのだな?ならば、ならば…!」
「そうよ、我と共に世界を闇に変えようぞ」
アンブロジァがそう言うや否や、天草の魂はぼんやりとした影から、以前所有していた身体へと変化を遂げた。ただ、顔だけはうって変わった鋭い形相となり果てたが。
「さあ、娑婆へと戻り、よい肉体を求めよ。そして我を現世に呼び起こせ」
そうアンブロジァが告げると天草の魂は魔界から消えた。後日、日本、出羽山中で適当な肉体を手にするわけだが、それが自分自身を滅ぼす原因となることや、またそれが思いもよらぬ結果を呼ぶこととなるなど、この時の天草に分かり得ただろうか。
「わたしは天草四郎時貞。アンブロジァ様に忠誠を!」
哀れ天草は今や、邪神の下僕となり世界を暗黒に誘おうとしていた。
|