柳生十兵衛 <切り捨て御免の隠密剣士>


公式ストーリー

 (メストムック収録バージョン)

 土佐のしがない武士の息子として十兵衛は生まれた。ある時、幕府の密命を受け、土佐を訪れていた柳生宗矩に「剣術家としての最高の資質を持っている。」と言われ、宗矩の養子となる。その後、十兵衛は柳生の姓を名乗るようになるわけだが、名に恥じないための文字どおり血の滲むような修行であった。彼が左目を失った理由も稽古の最中に養父宗矩によって傷つけられたためである。養父の見込みは正しく、18歳の時に将軍家指南役であった養父をも超える実力を見せ、公儀隠密剣士となり諸国を旅するようになった。23歳のときには一度故郷の土佐に帰るものの、既に家族はちりぢりとなっており、隠密として諸国を回るかたわらに家族を探すことを決意した。隠密として諸国を旅することは、自分の使う柳生新陰流・改の剣術が、どこまで通用するかを見極めるのに大いに役に立ち、無名の剣士である覇王丸や橘右京などの存在や、その太刀筋がどんなものであるかも十兵衛は知ることが出来た。ただ、文化人であった狂死郎だけは彼の眼中には止まらなかったようだ。
 隠密としての命令がないときは、生家である土佐の竹林で修行に明け暮れる毎日で、十兵衛の噂を聞き付けては決闘を申し込む者がよく訪れた。
「お主、なかなかの腕前。だが我が新陰流・改にかなうものはおらぬわ!」
 誰も十兵衛にかなう者などいなかった。ただ覇王丸と名乗る男と一度戦ったとき、互角の勝負をした彼が武人としての十兵衛に惚れ込み、十兵衛の知識にないことを言った。
「バテレンの国々にも変わった剣術があるそうだ。俺たちが使っている太刀とは違う両刃の剣を使ったり、細い、突くように使う剣の達人がいるんだそうだ。」
 その話は、狭い日本のことしか知らなかった十兵衛の理解出来る情報ではなかった。だが後日、長崎の出島に仕事として出向いたときに流暢な日本語を喋るオランダ人の医者がいろいろと教えてくれた。
「なるほど。世の中は広い、拙者の知らぬことも多いわ。バテレンの国々とやらに一度行ってみるか。」
 柳生新陰流の力で世界最強を極めんがため、という理由で幕府から暇をもらうのに、少し時間がかかった。だが後日、鎖国中で異例のことではあるが世界各地を回る許可を得、自由の身になり、晴れて海外へと旅立つのであった。




 (ALLABOUT収録バージョン)
<我が新陰流・改にかなう者はおらぬわ!>

 土佐のしがない武士の息子として十兵衛は生まれた。(※1)或る時、幕府の密命を受け、土佐を訪れていた柳生宗矩に「剣術家としての最高の資質を持っている。」と言われ宗矩の養子となる。(※2)
 その後、十兵衛は柳生の姓を名乗るようになるわけだが、名に恥じない為の文字どおり血の滲むような修行であった。彼が左目を失った理由も稽古の最中に養父宗矩によって傷つけられたためである。(※3)
 だがしかし、十兵衛は厳しい修行をこなし、養父宗矩の見込みどおり、18歳の時には将軍家指南役(※4)であった養父をも超える実力を見せ、公儀隠密剣士(※5)に任命され、諸国を旅するようになる。

 23歳の時に一度故郷の土佐に帰るものの、既に家族は散々、行方知れずになっており(※6)、隠密として諸国を回るかたわらに家族を探すことを決意した。また、隠密剣士として諸国を旅することは、自分の使う柳生新陰流・改(※7)の剣術がどこまで通用するかを見極めるのに大いに役立ち、無名の剣士である覇王丸や橘右京などの存在や、その太刀筋がどんなものであるかも十兵衛は知ることが出来た。(※8)ただ、文化人であった狂死郎だけは彼の眼中には止まらなかったようだ。(※9)

 隠密剣士としての命令が無いときは、生家である土佐の竹林で修行と新陰流の研究に明け暮れる毎日を過ごしていた。そして、この頃から十兵衛の噂を聞き付けては決闘を申し込む者がよく訪れた。
「お主、なかなかの腕前。だが、我が新陰流・改にかなう者はおらぬわ!」
 その言葉通り、誰も十兵衛にかなう者などいなかった。ただ、覇王丸と名乗る男と一度戦った時、互角の勝負をした(※10)彼が武人としての十兵衛に惚れ込み、十兵衛の知識に無い事を言った。
「バテレンの国々にも変わった剣術があるそうだ。俺たちが使っている太刀とは違う両刃の剣や細い、突くように使う剣の達人がいるんだそうだ。」
 その話を聞いた時は、狭い日本のことしか知らなかった十兵衛の理解出来る情報ではなかった。(※11)だが後日、長崎の出島に仕事として出向いた時に流暢な日本語を喋るオランダ人の医者(※12)が色々と教えてくれた。
「なるほど。世の中は広い、拙者の知らぬ事も多いわ。バテレンの国々とやらに一度行ってみるか。」
 柳生新陰流・改の力で世界最強を極めんがため、という理由で幕府から暇をもらうのに、少し時間がかかった(※13)が後日、鎖国中で異例の事ではあるが世界各地を回る許可を得、自由の身になり、晴れて海外へ旅立つのであった。

(※1)十兵衛の実父は土佐藩の中でも特に冴えない武士だったと云う。「鳶が鷹を生む」とはこのことである。
(※2)宗矩は十兵衛を試す為に彼に切り掛かったと云う。このとき十兵衛は木の棒でこれを受けたと言われる。
(※3)十兵衛10歳の時のこと。実際のところは、宗矩の十兵衛に対する剣術家としての嫉妬心から起きたことである。これ以後、宗矩は十兵衛とは剣を交えなくなる。
(※4)将軍家に剣術を教える名誉を受けた剣術家のこと。
(※5)諸藩や幕臣の動静を探って、反乱を未然に防いだり、犯罪捜査する幕府の密命を受けた剣士。
(※6)十兵衛が江戸に行ってから半年後、土佐藩主のお家騒動に巻き込まれて彼の実父は切腹、他の家族は散々となり、事件は闇に葬り去られていた。宗矩はこの事実を知っていたがあえて十兵衛には伝えなかった。修行の邪魔になると思ったからであろう。鬼のような男である。
(※7)十兵衛は新陰流の研究にも熱心だった。古き格式を残しつつも新しい要素を取り込んで生み出されたのが、二ッ角羅刀をはじめとする数々の奥義である。そのため彼はこの剣術を柳生新陰流・改と称した。
(※8)十兵衛は、一度見た太刀筋は完璧に見切る眼を持っていた。これも彼の剣術家としての強さの一つである。
(※9)狂死郎の剣技は「ただの派手好き馬鹿の大道芸」と後々まで十兵衛は語ったと云う。頭のカタイ親父である。
(※10)十兵衛は互角と語っているが、本当の所は覇王丸のプロフィールに語られている。
(※11)自らの修行と研究に没頭していたので、限られた情報しか入ってこなかった。十兵衛は覇王丸よりも剣術馬鹿かもしれない。
(※12)この医者の名はヅーフ。弟子の中に西順之助という少年がいたことは余談である。
(※13)すでに養父宗矩はこの世を去っており、数年前から次期将軍家指南役の話が十兵衛にきていたため。


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