幻十郎は愛用の銀煙管をくわえ、ぷかりと紫煙をはいた。 江戸、麹町の料亭の一室で、牙神幻十郎は小柄な老人と酌み交わしていた。 「先生、またよろしくお願いしますよ」 商人風の老人が、牙神幻十郎に向かい紫色の袱紗に包んだ小判を差し出した。 邪魔者、というのは誰の心の中にも存在するもので、容易に殺人が行えたこの時代、人を殺すことを生業とする職業が生まれる。 牙神幻十郎は殺し屋を職としていたわけではないが、気が向いたときだけ、巨額の報酬の代償として、殺しを請け負っていた。(※1) 「足りぬ……な」 「ええ、ええ。これはほんの前金でございます。見事仕留めていただいたあかつきには、もう五十両用意しております故、それと、これはほんのわたしの気持ちでございます」 紫色の袱紗の中にもう三十両ばかり、小判が積まれていた。 「これでたっぷりと女でも抱いてきておくんなさい。いや、先生は男の方が良いのでしたかな」 老人はいやらしく笑った。 幻十郎は老人に一瞥をくれると、南蛮渡来の秘薬(※2)を煙管に詰め、またぷかりと紫煙を吐き出した。 「……くだらぬ世の中だ」 幻十郎は京で生まれた。 母親は色白で小柄な女性で、どこか虚ろな眼をした表情が印象的であった。ときどき、おかしなことを口走ったり、奇怪な行動を取る癖があった。(※3) 幻十郎は父親を知らない。 母親は幻十郎に、 「お前の父親はお城のお殿様よ。幻十郎、お前はわたしの誇りだよ」 と言ったかと思うと、 「お前など生まれて来なければよかった。お前は罪人の子さ。人殺しの子さ。どこかへいっちまいな」 などと言う。 父親についてはどれが正しいのか幻十郎には分からなかったし、幻十郎も知ろうとは思わなかった。 なぜなら母親は、よく知らない男を家に連れて来た。僅かな小遣いを幻十郎に与え、 「夕暮れまで帰ってくるんじゃないよ」 と厳しい顔付きで言い、幻十郎が夕暮れに家に戻ると、決まって、 「お城の父上が迎えに来てくれるまでの辛抱だよ」 と、幻十郎を抱き締めた。 ある日、母親がまた知らない男を家に連れて来た。蓬髪の汚い浪人だった。 母親はいつものように幻十郎に小遣いを持たせ、外に遊びに出掛けさせた。 夕暮れに家に戻ると、いつもと違い、男はまだ家にいた。帰る様子もなく、酒を浴びるように飲んでいた。 男は幻十郎をじろり、と睨み 「なんでぇ、その目付きは。気にいらねぇな!」 と、幻十郎に向かって杯を投げた。杯は幻十郎の額に当たり、血が滲んできた。それを見て、母親は幻十郎を庇うどころか、 「幻十郎。おとっつあんに、おあやまんなさい」 と言った。 母親の頭はまた混乱しているようで、男はにやにやと笑い続けた。 それから、しばらく男は幻十郎の家に居座り続けた。幻十郎の身体には大小の打ち身が絶えることが無く、母親は相変わらずなにも言わない。 (殺してやる) それが初めて幻十郎に生まれた殺意であった。 ある日、幻十郎が帰ると男は母親との情事の最中だった。 男は幻十郎を見るや、 「貴様の母親が嬲られている様はどうだ、ええ?」 と、いやらしく笑った。 恍惚とした表情で母親は、 「幻十郎、幻十郎、助けておくれ。母さんはこの男に殺されちまうよ」 と、懇願した。 幻十郎の中でなにかが弾けた。隅に置いた男の大刀を掴むと、母親の情夫に向かって刃を降り下ろした。 ぽとり、と鈍い音を立てて男の二の腕が落ちた。母親の悲鳴が辺り一面に響き、情夫にすがりついた。 一瞬の間が、数刻のように思えた。 幻十郎は冷静さを取り戻し、大刀を捨て家を出ようとした。もう二度と帰らないつもりだった。 不意に幻十郎は背中に焼けるような熱さを感じた。 振り返ると、血とあぶらにまみれた大刀を握る母親がいた。髪を振り乱し、言葉にならない嗚咽を吐きながら、 「あああ、さっさと殺しちまえばよかった。お前のせいであたしはいつも不幸だった」 母親は既に狂っていた。 幻十郎はそれから先をよく覚えていない。飛び散る血飛沫、喚き散らす男の声、母親の悲鳴、熱く焼ける背中。そして……一面の血の海、息の絶えた男と女。 数日後、幻十郎は老人の依頼どおり、人を殺した。 「先生、先生。ありがとうございます。これで枕を高くして眠れる、というものです。これは、お約束の半金五十両で……」 と言うや否や幻十郎は大刀を抜き老人に向かった。 「な、何をなさります。子飼いの犬に手を咬まれるなんれ、わたしはまっぴらですよ」 あわてたように老人は後ずさる。 幻十郎はいつものように、口の端を吊り上げて笑い、 「子飼い? 俺は誰にも飼われた覚えなどないわ。貴様を殺せば喜ぶ奴がいる。ただ、それだけのことだ」 一閃、幻十郎の刃が老人を貫いた。 「……おろかな。他人を信用するから寝首をかかれるのだ」 幻十郎は血のついた大刀を払い、 「友情、平和、愛……全てを信じろ。そして裏切りを味わえ。貴様の首は俺が斬ってやるぞ、なぁ覇王丸」 幻十郎は笑った。狂喜に満ちたそんな笑いだった。 (※1)幻十郎が破門されてから斬った人の数は2百人は越える。 (※2)現在のオランダ領である、西フリージア諸島の小島にある洞穴にしか繁殖しない苔を乾燥させてつくったもの。現在では絶滅してしまっている。 (※3)二十数年前、こんな事件があった。とある屋敷に忍び込んだ岡っ引きが見たものは、首のない死体と契っている女であった。その二人が幻十郎の祖父母である。 |
覇王丸と同じく、和狆の弟子。腕は覇王丸よりも上であったが、あまりにも魂が暗黒に近かったため、和狆より破門を申し渡される。和狆、そして覇王丸に恨みを持った彼も、魔物に魅入られ、その下僕になった。 気に入らないヤツらをすべて斬って捨てたあとは、魔物自体もすべて斬り殺そうと考えている。 |
飛騨の山奥、枯華院という寺から連日激しく打ち合う剣の音がこだましていた。剣を打ち合っているのは二人の男である。一人は髪をざんばらに結び、もう一人は背中に大きな傷がある。 「せい!」 ざんばら髪の男が袈裟懸けに大きく斬りかかる。実に豪快な太刀筋である。 「どりゃ!」 その攻撃を交わし、刀を振り下ろした状態の男に一閃、背に傷を持つ男が鋭い突きを決めた。その突きをまともに食らった男は地面に叩きつけられるように倒れ込んだ。 「待て!」 その打ち合いの一部始終を見ていた花諷院和狆は、更に攻撃に移ろうとしていた傷の男を制した。 「殺す気か、幻十郎。」 傷の男、牙神幻十郎は静かに和狆を見据え、 「俺はこいつとの勝負に勝った。殺されようが文句は言えまい。なぁ、覇王丸。」 倒された男、覇王丸は黙って幻十郎を見ていた。覇王丸の右の脇腹から血が流れていた。 二人はほぼ同時期に和狆の元に弟子入りした。和狆は「この二人ならば、自分の技を受け継いでくれる」そう思っていた。現時点では幻十郎が勝っている。だが、覇王丸の底無しの器に和狆は期待を寄せていた。幻十郎の魂は暗黒に近すぎたのだ。 「このままでは、いずれその技をもって人に災いをもたらすにちがいない」と案じた和狆は、牙神幻十郎を破門させるのであった。 和狆、覇王丸に恨みの感情を持つ幻十郎は、その負の感情を全ての人間に抱くのにそう時間はかからなかった。 そこを魔物に魅入られたか、幻十郎もまた魔物の手下となって、覇王丸を斬り殺す機会を狙うのであった。 |