「雷符!」 虚空へ放たれた青い符が形を変え、翼を持ったもの「鳥」となって漆黒の闇へと吸い込まれるように消えて行く。 「グギャァァァァ……」 一瞬、暗闇に青白い光りが灯り、異形の者の姿が浮かび、そして消える。 「いつにもまして数が多いですね」 いつのまにか全身黒ずくめの男が背後に立っていた。(※1) 「……お主か。どうやらそっちの方は片付いたみたいだの」 男は振り向いた。 男の名は花諷院和狆。修行僧のような格好をし、闇に住まうものを狩ることを生業としている。一見小柄で見窄らしいなりをしているが、見るものが見ればその力の程は分かるであろう。(※2) もう一人、黒ずくめの男は、頭巾を被り瞳以外の部分は全て隠され、表情は読み取ることはできないが、ただ者ではないようだ。 「一息つきたい所じゃが……休ませてくれそうもない……!?」 穏やかな表情で、煙管を懐から取り出そうとした和狆の手が止まる。黒ずくめの男も腰に差してある武器へと手を延ばす。 闇の質が変わった。 和狆は懐に差した刀を武器、もう一方の手を懐に入れた。 オン・ダキニ・サハハラキャテイ・ソワカ(注:原文は梵字) 二人の前に闇より濃い闇が現れた。それはみるみるうちに拡大し、ある程度の大きさで止まった。 そして、その闇の中から一人の女性が現れた。実体は無く精神体であったが、その姿は妖艶にして、汚れなき純粋な美しさを象っている。だが、全身は暗黒のオーラに包まれていた。 「我が名は羅将神ミヅキ。(※3)我の眠りを妨げる者よ、消え去るがよい!」 ミヅキが叫ぶや否や、和狆と黒ずくめの男の足元から光が発生し、その衝撃によって二人は大きく吹き飛ばされた。かろうじて致命傷は避けたものの、受けた傷は決して浅くはなかった。 ──一方的な戦いだった。和狆から放たれた符はミヅキに届く前に全て燃え尽き、繰り出される刃は暗黒のオーラに遮られ虚しい音をたてるだけであった。 「ここは……退くしかないようですかね」 「……そう簡単には……見逃してもらえそうもないがの」 和狆は呼吸を整えながら答えた。 ミヅキとの戦いは既に二刻が過ぎ、和狆達の体力と精神は限界に達している。(※4)脇腹に受けた傷口からは絶え間無く血が流れ続けた。 「……あの方法でやってみるかのう」 和狆は刀を鞘に戻し、懐に手を入れる。 「そうですね」 黒ずくめの男も懐に差したもう一本の棒状の武器を取り出し、構える。 「死ね! 魔界がお主らを呼んでおるわ!!」 ミヅキの手から光球が放たれる。 「白旗陣!」 黒づくめの男の前に青白い光りの壁が発生する。ミヅキから放たれた光球は壁に当たり、消滅することなく正確にミヅキへと跳ね返る。それを見た和狆は懐から巨大な符を取り出し、 「今じゃ! 風神乱……!?」 和狆は力ある言葉を最後まで発することが出来なかった。突如としてミヅキの前に現れた巨大な獣(※6)の咆哮がすべての呪言をかき消した。 「怨!」 大地が吠えた。闇が震えた。 「ぐおぉぉぉぉっ!」 「があぁぁぁぁっ!」 二人は成す術もなく吹き飛ばされ、崖下へと消えていった。薄れ行く意識の中で獣の声だけがいつまでも聞こえていた。 「破壊………滅亡………破滅………」 「師匠、師匠!!」 突然、耳元で自分を呼ぶ声がした。 「ほ……、ほうほう。わしとしたことが、寝てしまったわい」 和狆は軽く頭を掻く。 「大丈夫かい、師匠?この前、屋根裏で見つけた刀を見てから変だぜ」(※7) 覇王丸は心配そうに尋ねた。 「ほ……お前のそんな顔が見れるとはのう。ありがたや、ありがたや」 「ちぇっ。人が折角心配してやっているのによ。……さぁーて、もう一汗流すか」 和狆に背を向け、覇王丸は大股にどかどかと歩き林の中へと入っていった。(※8)和狆はそれを見送り、冷えきったお茶を飲み干し、空を見上げた。 「今日もいい天気じゃわい」 (※1)若き日の黒子である。この頃から既に素顔を隠していたのである。 (※2)ある程度の剣技を持つ者が、和狆の技を繰り出すところを見れば、彼の全身が光っているように見える筈である。それは、和狆の内在する「気」である。 (※3)ミヅキとは、百数十年程前にある法力僧によって封じられた怨霊であり、誰かに乗り移ることによって肉体を得ることができる。 (※4)二人にかかると、どんな強い魔物であっても半刻以内に倒されいた。いかにミヅキが強いか伺い知れる。 (※5)この時点での和狆最大の奥義。この後修行を重ね、「心乱呪符」や「仁王符霊殺」を身につける。 (※6)アンブロジァの魔力の一部が実体化したものである。ミヅキはアンブロジァと契約することによって、自在にこの獣を召喚する力を得ていた。 (※7)覇王丸が見つけた刀は、昔、和狆が使っていた愛刀「對魔」である。刀身は中程から折られてなくなっていた。 (※8)この後、轟音とともに、林が吹き飛ぶ。驚いた和狆は三日間ぎっくり腰で寝たきりになったという。 |
飛騨の山奥にある寺・枯華院の住職であり、覇王丸と幻十郎の剣術の師匠でもある。若い頃に、数多くの魔物を滅ぼした凄腕の剣客であったが、一度だけ魔物に敗北したのをきっかけに、生命をいつくしむ僧侶となる。弟子である覇王丸が、ある日魔物に襲われたのを知り、魔物討伐の旅に出た。 審判役の黒子とは無二の親友である。 |
飛騨の山奥、滅多に人の訪れることのない寺の住職として余生を過ごしている老人がいた。寺の名前は「枯華院」、住職の名前を「花諷院和狆」という。 この老人がまだ若かったころ、冴え渡る剣技で名を馳せ、多くの魑魅魍魎と戦い滅ぼしていった時期があった。ただ一度だけ、ある魔物に挑んだ時に、まったく歯が立たず逃げ出したことがあり、それを機に「もう殺生はすまい」と心に決め、滅ぼした魔物の供養のために僧侶をしているのだ。 ある日、和狆の元に一人の屈強そうな侍が訪ねて来た。侍の名は覇王丸。和狆の剣術の弟子であった。 「師匠。俺、この間魔物に襲われてよ。魂だか何だか狙われているらしいんだけど、何か知らねぇかなぁ」 覇王丸の魂を狙うもの、その魔物がどんな者か和狆には安易に見当がついた。和狆は普段滅多に見せない険しい顔で、覇王丸に向かって「関わるな」と言い、覇王丸もそれ以上、何も問わなかった。 懐かしい弟子と数刻飲み交わし、和狆は覇王丸に手土産を持たせて見送った後、旅支度を始めた。数日後、和狆は住み慣れた寺を後にした。その表情はいつにも増して穏やかであったという。 |