男はただ歩いている。 満つ月の………… 歩みを進める男の手には青い花が握り締められている。しかし、水分が失われた花弁には生気は無く、今際に臨むひとの手を思わせた。 絶えぬ白波に………鏡に……鏡にうつす………… 数日前、右京は魔界に踏み込み、この世の者でない怪物と戦っていた。怪物は一匹ではなく、美しい女に連れられている。怪物はとてつもなく大きく、女は壮絶な邪念を発している。人間がまともに挑んで倒せるとは思わなかったが、そもそも彼らが巣食う「魔界」に入って行ったのは、右京の意志であった。 「右京様は花がお好きですか? さりげなく咲く花には心がひかれますね」 右京の心には、人生を捧げ敬愛する女性がいた。その女性、──圭に出会うまでの右京には常に死の影が付きまとい、物事の暗なる側面しか感じられなかった。しかし、野の花を愛でる優しい圭の眼差しは、彼の生き方そのものを変えてしまった。その日から右京は愛する圭の笑顔を見んが為、魔界の入り口に咲くという「究極の華」を探して旅に出た。その行程は決して楽なものではなく、進行する肺病との戦いの日々であったが、ついに究極の華が存在する魔界へと辿り着いたのだった。 そして死闘。 満つ月の…………鏡にうつる君……君が背の……… 魔界の門を開き、最後の決戦が近づいて来た頃から、右京の心に一つの句が出来上がりつつあった。 淫らな邪句を叫ぶ女。血臭を吐き散らしながら突進する魔獣。つばめ返し。 怒号。 静寂。 艱難辛苦、魔獣は滅び、右京は生き延びた。 右京の斬り上げた一閃で凶命を断たれた魔獣は、邪鳴を上げながら滅んで行った。地獄の門もその入口を閉じ、究極の華は右京の手に入った。そして世のありとあらゆる魔なる者は門の中へと吸収され、世には平和の暖かい光が満ちていた。 満つ月の…………鏡にうつる……… 君が背に……吾……我が…心はや… 右京は満足だった。もちろん勝ち延びた事ではなく、彼女への魂を込めた究極の華を手に出来た事が嬉しかった。華は彼女に途切れぬ笑顔を与え、その笑みは右京を陽のあたる場所へと導いてくれるだろう。一刻も早く帰らねばなるまい。先程までの死闘が想像も出来ないような静かな木々の中、右京は立ち上がろうとした。 と、 喉の奥に激しく込み上げた物を右京は片手で受け止めた。血。 肺病みは今に始まった事ではなく、これまで幾度となく喀血しているが、これ程の大量の血を見た事が無かった。思わずその場に崩れてしまう。焦点が定まらず、意識も朦朧として……そして、句は完成した。 満つ月の 鏡にうつる 君が背に 我が心はや 立つる野に無し 右京 ………。 そうか、そういう事なのか。…………。 ………。ふふふふふ。俳の心とは恐ろしい。我が死命を察するとはね。 ……………………しかし。 まてまてまてまて。 まだだ、右京、まだだぞ。まだここで朽ち果てる訳には行かん。華を……圭殿にこの華をお渡しするまで朽ちる訳には…… 右京は立ち上がった。幾何残されているやも知れない生命を燃やしながら、己の魂を陽のあたる場所におく為に、太陽の下へと歩き始めた。 |
右京が手に入れた魔界の華は、彼が求める「究極の華」ではなかった。 「この華はかとれあ、だな。文献には魔界の中心に究極の華が咲くとあるが、本当に存在するかは……わからぬ」 武蔵の国の老学者は語った。 「文献にあるならば、かならず究極の華はそこにあるはずです。わたしは、その華を探しに行きます」 右京はふたたび、魔界を目指す旅にでた。 |