天明三年。 かつてそこは、村だった。 人が、生きていた場所だった。 だが、今は。 累々と転がる、肉塊。 肉塊。 肉塊。 肉塊。 大気を漂う、ねっとりと濃い、血臭。 そのただ中に男がただ一人、いた。小柄な、初老の男だ。 小さく首を振る。溜息をついたかのようにも見える。 「けもの」 言う。 ひらりと、空っぽの左袖が、翻った。 日の本の国に「鬼」が現れた。 身の丈は八尺を超え、五尺もの長さの幅広の大太刀を携えているという、鬼。 鬼は突然に現れ、人を殺した。 男も女も、子供も大人も、赤児も年寄りも、皆、殺した。 その手の大太刀で、斬り、殺した。 鬼の前には恐慌が、鬼の後には物言わぬ死体の山が、あった。 鬼に襲われた村は数十、命を奪われた者は千を超えたという。 一人は、縁の上に立ちて見下ろし。 一人は、庭に片膝をついて控え。 「鬼退治だ」 伊賀忍の出羽の里長藤林伊織は、服部半蔵にそう言った。 「聞いているか」 腕を組み、早口で言葉を続ける。 「噂程度は」 鬼は逃げも隠れもしない。何処からか現れ、人を殺し、何処かへ去る。 それを繰り返す内に、その容姿の、その技の、かけらが風聞となって伝わっていく。それは多分に誇張され、歪み、恐怖をいたずらに広げていった。 だが、半蔵と伊織は、その中から真を拾い上げる術を知っている。 そして、真につながるものを知っていた。記憶の中に、持っていた。 「そうか。 ……鬼を殺せ。お主に一任する……」 命じながら、天を見上げる。 半蔵もまた、天を見上げる。 抜けるように青く高い空に、黒い影が一つ。 まっすぐにこっちに向かって舞い降りて来る。 「九郎丸か」 そのこと自体は言わずもがなであることを、伊織が口にした。 立ち上がり、半蔵は左手をすい、と伸ばす。 降りて来るときの勢いとは裏腹に、ふわりと優雅に黒い影はそこに降り立ち、くわ、と一声鳴いた。 磨き込まれた黒檀の様な色をした、一羽の鴉だ。 半蔵は片手で器用に、九郎丸の足に結わえられた書状を取った。折り畳まれたそれを開かずに伊織に渡す。 その途端、九郎丸は役割は終わったとばかりに翼を広げ、飛び立った。 構わず書状に目を通した伊織は、む、と首を捻る。 半蔵に返す。 同じように書状を見る。 そこには、こうあった。 「 彼のもの おににあらず さりとて ひとにあらず けもの 也 」 それだけが、書いてあった。 「彼のもの、か」 九郎丸が飛び去った空に目を、やる。 鴉の主は、見たのだろうか。 「鎧殿」 膝をついた姿勢に戻り、半蔵は言った。 「服部半蔵、参りまする」 ゆっくりと、伊織は視線を半蔵に落とす。 「…………………」 暫し、じっと半蔵を見る。 軽く顔を伏せた半蔵の『内』が、ほんの一瞬、揺れるのが伝わる。 それが、許す故だ。 「急げよ」 「……御意」 くる、と伊織は庭に背を向け、家の内に入る。 その時には、半蔵は庭から姿を消していた。 ぱったりと、鬼の消息が絶えた。 半蔵が出羽を出てから五日と経っていない。 伊賀衆にも、それ以外の忍達にも、幕府にも、その行方を知ることはできなかった。 かつてとある村であったところに一人、半蔵はいた。 死体はない。血臭もない。 代わりのように村のはずれに、無数の棒が立っている。墓標代わりに突き立てられた、ただの棒が、いくつも、いくつも。 それが、空虚だった『あの時』とは違う無惨さを漂わせている。 半蔵はゆっくりと、目を閉じた。 「けもの……」 言葉がまさに洩れるようにその口から出でる。 静かなる激情がその中に、在った。 五年の時が、これより過ぎる。 時は、天明八年。 |