朱夢


 水音。
 絶え間なく続く、全てを閉ざす水音。
 雨。
 しょうしょうと長く降る雨。
 青。
 回る。くるくると、回る。
 回るは黄。
 くるくる、くるくる……

 遠い、日。

 朱。
 舞い散る、落ちる。
 ぽとりと、ぼとぼとと落ちる、赤。流れる。
 銀。
 翻る。ひらりとひらめく。
 風がひゅん、と鳴いた。

 かえっては、こない。遠い、日は。

「…………!」
 叫ぶ声。声にならぬ声。声無き声。


 呼ぶ。呼びかける、声。
 半蔵は、はっ、と目を見開いた。
 蒼。
 朱とはあまりにも対象的な、やわらかく蒼い光。
 それが月光と気づくまで、しばらくかかった。
 障子を通して、蒼い光は部屋に差し込んでいる。
「よかった…」
 おんなのやはり蒼い影が、その中にあった。
 妻である、人。
――楓……。
 深い、吸い込まれそうなその黒の目が、月明りの中に感じられた。心配そうな気振りが伝わってくる。
――ああ……
 呼んだのはこの女だと知る。
 ほう、と息が洩れた。
 ゆっくりと、体を起こす。
 全身が冷たい汗に濡れ、息が僅かに乱れている。
「ひどい汗……」
 月明りを頼りに、楓は夫の汗を布で拭った。
 その感触は、現のもの。
「夢を、見られましたか」
 心を抑え、やさしく穏やかに言う。
 まだどこか硬い表情のままの半蔵の心を和らげるように、ゆっくりと。
「…ゆめ」
「そのように、感じました」
 楓が目を覚ましたのはつい先ほどのことだ。
 隣で眠る夫は、いつもと同じように見えた。
 それでも、気づいた。夢を見ていると。苦しみの中にあると。
 見ていなければならない、目を背けることは許されない、そんな苦しみに、ただ一人で静かに耐えているように思った。
 眠りの中にあってさえ、だ。
 夫を案じると同時に、そのことが悲しく、楓は眠りにある夫を呼んだのだ。
 目を覚ましてくれるように、解き放たれるように。
「夢」
 繰り返してようやく、半蔵は言葉を理解する。
「ああ……やも、しれん」
 何を見たのか、何にこれほど心乱したのか、はっきりと思い出せない。夢のような、遠い日にあったこととも思えるようなおぼろな断片だけが、心のどこかを漂っている。
 あか、と、ぎん、と。
 唸る風、と。
「そうですか……」
 追うでもなく、ただ受け流すでもなく、ふわ、と楓は言った。
 妻に返すと言うよりは、己を納得させるように、半蔵は頷く。
 夢だ。ただの、夢だ。心を乱すことなどない。
 月光が、さざめく。嘲笑うように。
 さざめく。
「!」
 半蔵は楓の肩を抱き、伏せていた。
 不穏の気配を認識したのは、その直後。
 とろりと大気に広がる、感情。
 がつっ
 鋭利で重さあるものが柱に突き立つ。
 空を裂く音もさせず、いきなり。
 前兆はただ、あの、月光の微かな揺らめきのみだった。
 だがそれは確実に楓の身を斬り裂き、命を奪っていた、はずだった。
「あな、た……?」
 楓は半蔵の腕を掴んだ。その手が小さく震えている。
 遅ればせながら楓も感じ取る。明らかに自分を狙った「モノ」が、
「いる」
 答えともつかぬ言葉を返し、楓の体を強く抱く。
 応じて、楓の半蔵の腕を掴む力が強くなった。
 半蔵の体がぴりりと緊張しているのがわかる。息遣いは深く長い。つい先程の乱れはもう、ない。
 ……じゃらん
 鎖が鳴った。
 同時に、半蔵は楓を腕の中に抱いたまま床を転がる。
 どすっ
 布団を貫き、床まで達したか。
 それを耳にしつつ、半蔵は立った。
 楓はすぐに半蔵から離れ、その後ろに下がる。
 それとは逆に、一歩前に出る。
「何奴、何故のことかっ」
 強い語調で、闇に問う。
 蒼い闇に「想い」が満ちている。憎しみと哀しみ、歪んだ何かが熔けた、想い。
 気を張らねば、呑まれる。
「……見つけたぁ……やっと………やっとぉ……」
 答えたのは、啜り泣くような、声。
 気配が一つの形に凝る。
 蒼い光の中にゆらりと立つ、痩躯。
「やっと…やっとぉ……」
 『男』は、床に突き立った『それ』を、くん、と抜いた。
 三つの刃を輝きが滑り落ちる。
 その存在ただ一つで、先程まで柔らかだった月の光が冷たく、鋭いものに変わったように思えた。
 『男』はそれ―三枚刃の回転刀を胸元に引き寄せ、上半身を反らせる。
「……ミつケタよォ………」
 じゃっ
 半蔵の顔のすぐ側を、回転刀が飛んだ。
 どんっ
 遅れて、息を呑む音。
「クククク…スぐにハ殺サないよォ……たっぷリと、きょうフヲ……おレト、篝火のキョうふをかえそウナぁ……」
 ククと喉を鳴らしながら、男は己の右腕につながれた鎖を軽く手繰る。それだけで、次の瞬間には回転刀は男の手の中に戻っていた。
「うデカらモごうカ…」
 ぺろり、と刃をなめる。小刻みにその身が震える。
「アシをキろうか……」
 湧き上がる激情を抑えようとしているのか、解放しようとしているのか。
「ひとツズつ、かえシて殺るよォ……イたミと、狂負と、苦流シミ……ククッ…絶望!」
 ばっ、と大きく腕を広げる。
 じゃっ、と鎖が叫ぶ。
「ククク……ヒ…はははは……ウひゃひはハはハは、ひャーはっハっはッハっ………!」
 低い声は次第に大きく変わり、それは哄笑と成り果てる。
――……狂って、いる…
 ほんの僅か気を抜けば、崩折れそうな体を必死に堪え、楓は男を凝視していた。
 見える限りは現。目を逸せばそれはすぐに悪夢となる。悪夢からは、逃れられない……ぐるぐると回るそんな思いに、目を動かせない。
 蒼い光の中の、蒼い、痩躯。
 身を震わせ、叫び、嗤う、狂気に酔う影。

 流れ落ちる、蒼い光。

 蒼い蒼い月明りの中、楓は確かに『それ』を見たと思った。
――返る。もたらすものは、返る……
「サあ、いクよぉ……」
 笑いを残したまま、ぐぐっ、と上体を引く。
 その瞬間、半蔵が動いた。
「ひャはハはははハッ!」
 男は笑いながら、腕を振るう。
「伏せよっ!」
 叫び、己は跳ぶ。
 三度、刃が突き立つ音。
 くるりと身を捻り、男の背後に半蔵は降り立つ。
 転がる。
 破沙羅が身を捻る。

 目が、合う。

 ひうっ
 いつ戻ったか、回る刃が半蔵の身を掠める。
 ぽとり、と雫が落ちた。
 嗤いが歪む。
 ばんっ
 転がりながら、床を右手で、打つ。打ちながら、片膝立ちとなる。
「炎龍縛っ」
 ごおっという音と共に、二丈の朱い龍が半蔵の右手を起点に飛び出し、男に絡みつく。
 弾指の、間。
 龍はうねる焔と化し、その業火に男は包み込まれた。
 しかし焼かれながらも、男は嗤っていた。
 苦痛と狂気の嗤い声を上げながら、赤い光を弾く回転刀を持った右手を左肩の上に、構える。
 そしてぐうっと腰を引きながら、上体を前に倒し……
 ぎんっ!
 半蔵を、そして楓を睨みつける。
 底知れぬ憎悪と怒りだけがその目にあった。
「おぼエたよォ。オれは、おボエタヨオ……
 顔も、声も、匂いモ………
 ワスれないヨぉ。わスれさセナイよぉ……
 カナラず、返してヤる。カならずぅッ……!」
 焔が渦を巻く。
「篝火の、俺の痛み、苦しみ…返してやるっ、鬼めぇぇぇぇぇっ!!!!」
 魂を射抜くかのような視線が楓に跳ぶ。
「忘れるな。怯えろ、苦しめ…俺は破沙羅、首斬りばさらぁぁぁ……ひハハハハはハハハッ!!」
 朱い焔が、蒼く、瞬転した。
 それは一際激しく燃え上がり―しかし放つのは熱ではなく、凍てつく冷気―そして、唐突に、月の光に吸い込まれるように、消えた。
 破沙羅の姿と共に。
 何事もなかったかのような、静寂。
 柔らかさを取り戻した蒼い月の光と静寂が冷えた空を包み込み、満たす。
 その中に、布団に一つ、壁に一つ、柱に一つ、刃が突き立った跡が、ぼう、とあった。
 それだけが、証拠だった。
 そろそろと、半蔵は立ち上がる。
「……楓」
「…はい」
 体を起こし、答える。だが、足に力が入らず、立ち上がることはできなかった。
 思いだしたように体が震えだす。
 何度も掠めた、死の刃……そこに宿った、かなしい、狂気……
 それを、呼んだのは……
「大事、ありま、せん」
 やっと、言う。
「そうか……」
 半蔵はそっと、楓の肩を抱いた。
 伝わるぬくみは心地よく、震えを鎮めてくれる。
 目を上げれば、先ほど拭ったというのに、額にじんわりと汗が浮かんでいるのが見える。
 夫も恐怖を感じていたのかも、しれない……
「知っているか」
 妻の肩を抱いたまま、ぽつん、と半蔵は問う。
「……いえ」
 首を振る。
 だがあの破沙羅という男の方は、楓を知っている、楓の何かを知っている。
 言葉には出さぬが、二人ともそれには気づいている。

 『鬼』。

 『鬼』を楓は知っている。ある意味においては、この世の誰よりも『鬼』と呼ばれた者を識っている。
 だから、か。
 狂った男は、鬼を追い、鬼の『におい』を持つ楓を狙った。
 鬼の全てが憎しみの対象であるから、か。
「知っている気がする」
「え?」
「儂は、知っている」
 焔が在った辺りをじっと見つめたまま、ぼそり、と呟く。
 破沙羅の目に、笑いに、その全てに満ちる狂気。
 あれは、狂わずには正気を保てないが故の狂気だ。狂気にすがらねば壊れてしまう。だから、狂う。それしかないから……
 『それ』を、同じものを、半蔵は知っていた。
「……哭いていました」
「………?」
 妻を見る。
 今度は楓が、破沙羅がいた辺りを見ていた。
 蒼く冷たい光の中、確かに破沙羅は哭いていた。
 怒りと憎しみと狂気の色に満ちた目は、透き通った涙を流し続けていた。
「……どうしてなのでしょう」
 ささやくような声が、月明りの下を流れる。
 様々な想いに複雑に揺れ、震えている。
 返る。返りゆく。
 鬼のもとへ。
 全ては返る……それは……
「……わからぬ」
 半蔵にはそう答えることしかできなかった。

 月が隠れようとしているのか、蒼い光が陰りだした……。

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