鬼半蔵 弌


 首斬り破沙羅と名乗ったモノが現れてから、二日が過ぎた。
 出羽は、遅い夏がようやく訪れたところである。
 妖しのモノが現れていたことも知らぬように、山には生の活気が満ちている。
 天から鋭く強く、力に満ちた日が差し、葉を若緑に染めた山の木々は、その陽光を少しでも多く、少しでも長く受け止めようと枝を伸ばしている。
 そんな陽の下、楓は里長、藤林伊織の屋敷の門をくぐった。
 奥の間で、伊織は楓を待っていた。
「楓、参りました」
「うむ」
 伊織が目で示す場所に、座る楓の表情は硬い。
 里の女達が任務に赴くことは少なく、楓もほとんど任を受けたことはない。
 だが、楓の表情を硬くしているのはそれ故の緊張ではなかった。
 破沙羅が現れたあの日から、覚悟していたこと。
――兄上……
 鬼がもたらすものは、鬼に返る。
 兄である人が遠い昔に呟いた言葉。
 それは一つの理。
「破沙羅というモノは?」
 楓の心中をどう捕らえているのか、外目からは全くわからぬ表情と声―心は見えぬが、無感情と言うわけではない―で伊織は、まずそれを問うた。
 破沙羅に襲われたことは、あの夜の翌朝一番に半蔵が報告している。しかし里長は他の者には何も言うなと命じただけだった。
 言えるはずのないことである。この出羽の里にこの世ならざるモノが、それも服部半蔵の前に出現したとは……つい数ヶ月前のこともあるというのに。
「現れておりません」
 楓は首を振る。
 あの時のことが嘘のように静かな夜が続いている。
「そう、か。
 まずはこれを見てもらおう」
 言って、伊織は紙を二枚、楓の前に置いた。
「………!」
 それを目にした途端、楓の表情がこわばった。
 一枚には男の人相書きが、もう一枚にはその男の全身像が描かれている。かなりの腕の絵師が描いたもののようで、どの様な男であるかがはっきりとわかる。
 筋骨逞しく、随分と体は大きい。絵の脇にある注意書きによると八尺を超えるとある。白い蓬髪の下には虎を思わせる荒々しい男の顔がある。
 楓の目は、その顔から動かない。
「先刻、お屋形様の元より届いたものだ。間違いないか」
 伊織は楓がこの絵の男を知っていることを、知っていた。自身も、これが誰なのか知っている。それでいて何を考えているのか全くわからない目で、楓を見ている。
「……はい、いえ…いえ……はい」
 青い顔でぎこちなく首を振りかけ、しかしとどめ、楓は頷いた。その間も、じっと、絵を見つめている。
 この絵が、完全に正しく男の姿を表しているとは思わない。
 二十年近い時がある。
 それでも、みまごうはずも、ない。
 二十年の時を挟んでなお。
――………なお………
 それはやはり、断ち切れぬものなのだろうか。
「『鬼』だ。
 一月前に突如現れ、人を襲い、殺しているという。
 それを『討て』と命が下りた」
「……半蔵様に、ですか」
 ようやく目を伊織に向け、言ったその声には気丈にも震えはなかった。
「うむ。この後伝える」
「……では、私は、これで……」
 立ち上がりかけた楓を、伊織は手で制す。
「お主に命じることがある」
 言葉を一度切ると、伊織は心持ち背を伸ばした。
「お主に、半蔵と同行することを命じる」
「…………」
 上がりかけた声は抑えたものの、当惑の色は隠しようもない。
「こたびのお上よりの命、少々変わっていてな……」
 視線を楓の向こう、明け放たれた障子の向こうにやり、伊織は言った。
「服部半蔵、ただ一人に『鬼』を討たせよとの仰せだ。
 伊賀衆最強の忍は鬼半蔵。『鬼』を討つなど一人でことたりようとな」
「それは……」
 例のないことであることは、楓にもわかる。
 幕府は忍に命を下すが、それを如何に果たすかまで事細かに指示はしない。彼らは下した命が果たされればそれでよいのだ。そして忍達は、それに答え続けてきた。
 そのことは、忍と幕府の間の信用点とでも言うべきものを形成していた。幕府は深く忍のやり方に口出しはしない。忍は確実に任を果たす。それが使う者と仕える者の、破ってはならぬ「関係」だった。
「何故に…このような………」
「天草の一件が原因であろう」
 視線を楓に戻し、ひた、と見つめる。その表情が命を下す者の顔から、伊賀衆を守る者の顔に変わる。
「……」
 邪神の力により甦った怨霊天草は、現世での器を求めた。
 選ばれたのは、半蔵と楓の長子、真蔵。
 半蔵は我が子を救うために禁を破り、私事に己の力と技を振るい、そして我が子の肉体を取り戻した。
 それが数カ月前のことであった。
「虚と思い込んできたモノが、実だったと知ったのだ。
 恐れもしよう。疎みもしよう」
 伊賀忍最強を示す名、「服部半蔵」の名。それは諸国に知れ渡り、使う側である幕府にさえ怖れを抱かせていた。しかし半蔵がどれほどの強さを持っているのか、どの様な力を、技を振るうのかを知る者は、表の世にはごく僅かである。故にその怖れは確かにあるものでありながら、きわめて希薄なものであったのだ。
 「服部半蔵」を怖れる者の多くは、怖れながらも皆、疑っていた。
『真であろうか。名のみが一人歩きしているのではないか』と。
 だが、服部半蔵は魔人、天草四郎時貞を討った。それが真かどうかは不明であるが、少なくとも、天草を討つのに多大な功をなしたことは、確実であった。
 そして、ようやく、「服部半蔵の強さが真である」という事実に、幕府はじめ諸藩は気づいた。
「手足れの伊賀忍を『煙の末』というが、煙とて色もあれば匂いもある。見える者には、見える。見せねばならぬ時には、見せる。
 だが幕府は、影の者と気を払わなかった。
 だからこそ、気づいたときの反動は大きい」
 「怖れ」は「怯え」に容易に変わった。
 まだ半蔵が表の世に生きる者であれば、例えば将軍家指南役、柳生十兵衛のような立場の者であったとすれば、幕府はこれほどに怯えはしなかっただろう。
 それは「知っている」からだ。どのような者であるか、姿、人となり、その多くを知ることができるからだ。
 されど半蔵は影の世に生きる者。顔や姿でさえ、満足に幕府は知らなかった。
 そのことを、「未知」であることに気づいた幕府の怯えは否応もなく増した。
 使い続けることができるだろうか。これほどの力を持った者が我らに牙を向けばどうなる……。
 未だ天草の起こした災いの傷跡も癒えぬ、不安定な世である。幕府の思考も自然と悪い方へと向く。
「故に、かような命を下されたのだろう。
 常と異なる命に従えば安堵し。それで死ねば惜しみつつも喜ぶといったところか」
 皮肉の色が、僅かに混じる。
「そう、ですか」
 ただただ伊織の言葉を聞くのみだった楓は、ようやく口を開いた。
 伊織を見る。
 抑えた声に無理がないわけではない。だが、視線にゆらぎはない。
「私の役目は」
「見届けよ。あれに万一の事あらば、代わって顛末を報告せよ」
 両の手を膝の脇につき、しゅ、と僅かに下がる。
 体の前に残った手を、膝の前に引き、重ねて置く。
「御命、心して受けまする」
 言って楓は深く、頭を下げた。
「しかし」
 そのままの姿勢で、言葉を続ける。
「お答えください。何故、私なのですか」
「役を果たす為、それだけだ」
 ほんの僅かの遅れもなく、答えは戻った。
「……そうでございますか」
 顔を上げる。そこに見えた伊織の目は、僅かに細められているように楓には思えた。
「うむ」
「承知いたしました」
「その人相書きは、お主から半蔵に渡してくれ」
「はい」
「真蔵のことは案ずるな」
 真蔵の肉体は取り戻されたが、いまだに魂は魔に囚われ、醒めぬ眠りの中にある。
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
 もう一度深く頭を下げると、楓は立った。
 音もなく障子戸まで下がり、退出する。
 伊織は庭に目を向けた。
 ぱしゃん、と水が跳ねる音が、小さく響いた。

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