「徳川殿はよい人持ちよ 服部半蔵 鬼半蔵 渡辺半蔵 槍半蔵 渥美源吾は首切源吾」 低く伊織は口ずさみつつ、庭に下りる。 ぱしゃんっ 庭の隅の、小さな池の水が、跳ね上がる。 跳ね上がった水は、しかし落ちず、長く宙に伸び上がる。 ぴたり、とその動きが止まる。 止まった水が、ふる、と揺らめく。 揺らめいた水は次の瞬間、一丈の水蛇に姿を変えた。 『初代殿か』 音にならぬ音、『念』が伊織の耳に響く。強い意志と力のある、だがまだ若さを含んだ『念』である。 伊賀衆のお屋形であり、水気使いである覚斗の思念。その思念が実体をとったのがこの水蛇だ。 「御意」 水蛇は、伊織を見上げた。 『初代殿』とは、徳川家康に伊賀組を預けられた服部半蔵正成のこと。伊賀の出の優れた忍であると同時に、勇猛な武将の顔も持っていた正成は「鬼半蔵」と称され、家康配下の将の中で指折りの存在として名を知られていた。 『……鬼半蔵…か。奇妙なことよな』 家康の十六将の一人である半蔵正成につけられた、『鬼』の一文字。 半蔵正成が忍であることを知ってつけられたものではない。八尺の槍を振るう一人の勇猛な武者につけられた呼び名だ。しかしそれでも『鬼』の一文字は、一人の忍、服部半蔵にふさわしいものであった。 「だがその鬼も、人でござった」 『信康殿……か』 正成は家康が第一子、松平信康の傅役であった。故あって信康が切腹を命じられた時、その介錯人に選ばれている。 しかし正成は信康を斬ることができなかった。 涙を流しさえしたという。 ひう、と伊織は口笛を吹いた。 高い音が空を震わし、微かな木霊を呼ぶ。 その木霊が途切れたとき、羽音が聞こえた。 一羽の隼の姿が、天にある。 隼は差し伸ばされた伊織の左腕に、舞い降りた。 「先代殿の元へゆけ。加賀の辺りにおられるはずだ」 その足に書状を結わえ付けながら、伊織は言った。 「よし。行け」 軽く腕を上げる。その反動を利用し、隼は再び天に舞った。 ぴぃと一声鳴くと、飛び去る。 『先代殿……?』 「先の、服部半蔵であった者は『鬼』と関わった者の一人に」 『深い縁があるのだな』 覚斗も半蔵の抱える事情を知っている。だがそれは伊織に聞いた事に過ぎず、実感できるものではなかった。 「御意」 隼の姿が、山の端に消える。 『伊織よ』 「……は」 『半蔵はどうであろうか。『鬼』となれようか』 「知りませぬよ」 伊織の答えは、はぐらかす風であり、それが本心の風でもある響きであった。 『鬼』と呼べる顔もある、だがそうではない、揺らぐ顔も知っている。 だからこそ、その響きは宿った。 「なれど……命は果たしましょう」 『……そうか』 ゆらん、と水蛇は身を震わせる。 「徳川殿はよい人持ちよ、服部半蔵 鬼半蔵……」 低く、伊織はまた呟いた。 |