迷雨 弌


 そらは、どんよりと曇っていた。
 くうは、湿気と弱いがじっとりとした熱が漂い、雨が近いことを感じさせる。
 その空の下、若緑の竹林の中を、一組の男女が進んでいた。旅の浪人とその妻といった風である。
 夫―半蔵が少し先に立ち、従うように妻―楓が続く。
 二人の歩みは速い。ただ人の小走りほどの速さでひたひたと進む。
 ざわっ
 重い風が竹を揺らし、騒がす。
 半蔵は足を止めた。
 その影のように同時に、楓の足が止まる。
 心持ち鳶色の目を細め、半蔵は視線を動かした。
 場を騒がせたのは風だけではない。緑の陰に潜む者達がいる。隠れているつもりのようだが、殺気立った気配ははっきりと感じられる。
――やくざの類……十と…二。
 また、ざわ、と大気が騒いだ。
 だが今度は音も風もなく、殺気だった気配のせいでもない。
 前触れだ。
「降る」
 唇を動かすことなく発せられたその言葉が終わるよりも早く、
 ばんっ
 半蔵の被った編み笠を、雫が叩いた。
 ばらっ、ばらばらっ
 ばらばらばらばらばらばらばらばらばらばら………
 水の粒が天より無数に落ち来る。
 竹の葉を叩き、落ち、また叩き、地に辿り着くまで何度も何度も若い緑の葉を渡り、賑やかな音を上げる。
 激しい初夏の雨が、降る。
――四半刻ばかり、早かったな。
 だが通り雨だ。すぐにやむだろう。
 そう思いつつ、笠を叩く雨音を聞きながら、半蔵は動かない。
 進む素振りも引き返す気振りも見せず、雨に打たれ、濡れながら、道の先を見続ける。
 着物が水を吸い、体に張りついてくる。
 己は何をしているのだろうかという疑念が心の隅にある。ここでこれから起こるであろうことは、半蔵とは関わりのなきことである。事が起こる前に進むか、道を変えるかするべきなのだ。
 だが、動かない。何かが囁く。
 待て、と。
「あれだ」
 低いが、雨音にも消えぬ声が己のものだと、気づく。
 その声に、半蔵の行動を待っていた楓も道の先に目を向ける。
 ぽつん、と竹の緑の中に青があった。
 小さく見えたそれは次第に大きくなる。
 あれを待っていたのだと半蔵は知った。ようやく現れたそれを、己は待ったのだと。
 青は、大きな番傘だった。縁と中とに二つの黄の円がくるりと描かれている。
 それを差すのは、傘に合わぬ、小さな体。
 白い短衣と半袴に朱い袖無しを着、更にその上に輪袈裟を掛けている。足の脚絆から旅の者と推測がつく。
 傘の下に隠れ、顔は見えない。
 竹薮の気配が大きくざわめく。
「あなた」
 遠慮がちではあったが、はっきりとした声で、楓が声をかける。
「いや」
 視線を傘を差した少年に置いたまま、半蔵は答えた。
 楓は二度口を開くことはなかったが、笠の下から心配そうな眼差しを少年に向けていた。
 と。
 少年が歩みを止めた。
 前に軽く傾いていた傘を、上げる。
 それを合図とするかのように、ばらばらと竹薮からやくざ風の男達が飛び出してきた。数は半蔵が読んだ通りの十二人。
 その直前、弾指の間、黒い大きな目が、半蔵の視線に乗った。
 吸い込まれるように深い黒であり、吸い込まれるように深い、と感じるほど心の見えぬ目であった。
――これは……
 遠く近い記憶にあるものを半蔵は思い、それを掴みかけた、その、時。

 とんっ

 動いた。
 青い傘の下から現れる、朱にも似た色の髪の少年。
 虚しくやくざの一人が振るった匕首は、空を切る。
 踏み込み、その足を払う。
 ばしゃりと音を立て、無様に男が地に転がる。
「………!」
 怒りの声を、やくざ達は上げたようだった。
 困った様子で、きゅ、と少年は眉を寄せる。しかし襲いかかってくるやくざを躱わしながら器用に傘を閉じると、それを己の左脇に引いた下段に構えた。
 ぴたりと構えたその瞬間だけ、雨の音が大きくなった様な気がした。
「……本気で、いくよ」
 少年の唇が、そう言葉を形作ったのが、雨を通して見えた。
 わっと一斉にやくざが襲いかかる。
 くっ、と少年は上体を引く。
 ばっ
「氷雨返し!」
 青と黄の円が、竹の緑の中に鮮やかに開く。
 一斉に襲いかかったやくざの半分ほどが吹き飛ばされ、無様に泥の上を転がる。
 円が中心に吸われるように閉じ、空が哭く。
 残った者の更に半分が、少年の振るう傘に足を払われ、また、転がる。
 少年は傘を振るった勢いに身を乗せ、くるりと身を回す。一回転すると同時に、その手から傘が飛んだ。
「霧雨刃!」
 放たれた傘は、ばっ、と開く。
 鮮血が、緑の中に舞った。
 雨の中に響く悲鳴は、やけに遠い。
 ぱんっ
 やくざ達を切り裂き、戻ってきた傘を受け止めると、少年は閉じたそれを横に振るった。

 少年がその身には余る大きな傘、そう、刀ではなく傘を振るうたびに、一人、また一人やくざは倒れ、哀れで無様な姿を晒す。
 踏み込む。
 走る。
 軽く飛ぶ。
 引く。
――これは……なに?
 目の前の光景に、眩暈を伴う既視感を楓は感じた。
 少年に、別の姿が重なって見える。少年とはまるで違う体躯の、男。振るうのはもちろん傘ではない。巨大な、刀……遠いあの日に別れたきりになってしまった、人。もう会うことはないと覚悟を決めた人。
 そして、兄である、人。
「あなた……」
 雨音に消えそうな、それでいて消えることのない声に、半蔵は視線を動かした。
「どうした」
「あの子は、無限流を知っています」
 少年の動きを目で追ったまま、楓は、想いをすべて封じ込めた低い声で、そう言った。
「なに」
「多くは違います……でも、足さばきが似ています。似過ぎています」
 妻の言葉に、半蔵は緑の中を疾る朱い髪の少年へ、改めて目を向ける。
 遠い記憶を辿りながら見れば、確かに少年の足さばきは、あの男のそれと酷似しているように思えた。

 足さばきだけではないとも、思った。

 たんっ
 高く跳んだ少年は、ぐっと身を反らせるまでの上段に傘を振り上げる。
 降下する勢いに手伝わせながら、全身の力、体重の全てをかけて傘を振り下ろす。
 重く空を分かつ音に、鈍い、物がたたきつけられた音がかぶさる。
 声すら上げることなく、最後のやくざが倒れた。
「言ったよ、本気だって」
 倒れ、弱々しくもがく者、あるいはぴくりとも動かぬ者を静かに見渡し、少年は呟くと……迷う事なく半蔵に目を向けた。


 深い目だと、半蔵はまた思った。
 底の見えない深い目は、確かに半蔵を見ている。だが、その目に己は映っているのだろうかと、半蔵は思う。
 全てを見ていながら、何も映さない目。
――似ている。

「お主は」
「あなたは」

 びっくりしたように目をしばたたかせる。
 黒い瞳ががらりと変わる。
 そこにあるものを見、映す、当り前の瞳に。
「あ、あなたは?」
 ほんの少し警戒と怯えの色を混ぜた目で、少年は半蔵を見上げた。
 一度、二度、半蔵はまばたきした。
 いつ己は、あるいは少年は歩み寄ったのだろうか。
 少年が傘を握り直す。
「…敵ではない」
「…………」
 一つ息を抜いた半蔵の言葉にも、少年は警戒の色を解かない。じり、と半身に構えながら、半蔵を見据える。
 年は十三か、四か。だが顔立ちはもっと幼く見える。
「一つ問いたいだけだ」
 今抜いた力が、また体に走る。
 構える少年に緊張を覚えている。
――何故だ……?
 小さな少年に過ぎない。腕は立つが、恐れることなどないはずだ。
――解せん。
 そう思いながらも、まだ降り止まぬ雨の中、半蔵は笠を取った。
 力を抜くために、少年に敵意の無いことを示すために。
 そのことがやっと通じたのか、少年の傘を構える腕が下り、黒い目の警戒の色が薄くなる。
 それを見取ると、半蔵は言葉を続けた。
「お主、どこで剣を学んだ」
「……わからない」
 ゆっくりと、首を振る。
 濡れ、額や頬に張り付いた髪から雫が滑り落ちる。
「わからない?」
「僕は…僕が誰か知らない……」
 大きな黒い目が、遠くなる。
「あなたは、僕を知っているの?」
 雨足が激しくなったと、半蔵は思った。
 まだしばらく、雨は降り続きそうである。

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