迷雨 弐


 初めて会った少年であるというのに。
――……なつかしい……?
 心を漂う奇妙な感情に、楓は惑いを覚えていた。それは懐かしさに確かに似ている。だが、僅かにざわつくものもある……
 無限流と似た動きをしたから、だけではない。何か似ている。知っている。
 どこかこの子の目は、似ている。兄である、遠い人と。
 夫もそう感じているのではないだろうか。
 宿の者が貸してくれた着物に袖を通している夫に、目を向ける。
『知っている』
 何故かわからず、だがそんな確信に、夫もまた惑いを覚えている。口にしたわけではなく、表に顕わしたわけでもない。
 だが、一点。
 他人への興味を表に示すことの少ないこの人が、少年を気にしている。知らぬ少年と言葉を交わし、同じ部屋に泊まっている。『任』にあるときは誰よりも忍であることの人が。
 それが楓に、夫の心中に確信を持たせていた。
――でも……
 この人は気づいているだろうか。
――この子は、似ている……


 心が騒ぐ。
 不安を呼び起こす、しかし懐かしく、すがりつきたくなる感覚。
 あの夢と同じ。
 まう、あか。
 ひらめく、ぎん。
 やみのなかの、ふたつ。
 『知っている』


 少年は、じ、と半蔵を見つめた。
 ただぼんやりと眺めているようにも、見える。
 ゆっくりと、口が、開く。
「僕は、閑丸といいます。この名前は、自分で、つけました」

 その日も雨だった。
 雨に気づいたとき、少年はそこに在った。
 雨の中、ただ一人立っていた。
 その身には余る大きな傘を差し、背にはやはりその小さな体には合わぬ大きな宝刀を背負い、いた。
 傘を差しているにも関わらず、体はぐっしょりと雨に濡れている。
 なぜここにいるのか。
 どこから来たのか。
 どこへ行くのか。
 そして、己は誰なのか。
 何も少年は知らなかった。
 宝刀にも、傘にさえその名が印してあったというのに、少年は己の名すら知らず、思い出せなかった。

「傘は、霧雨。この刀は大祓禍神閑丸。
 だから僕は、自分に閑丸とつけました。他にどんな名前にしたらいいか、わからなかったから」
「剣はどうやって覚えた」
 閑丸の目を見ながら、半蔵は先ほどと同じ問いを口にした。
 伝える者はもはや無いはずの、無限流と同じ足さばき。構えよりも刀の振るい方よりもいっそ、そこが似ていることが気にかかる。
「夢で」
 く、と心を閑丸が抑えつけたのが見える。
 すがるような想いが見える。
 しかしそれを黙殺し、半蔵は問い返した。
「夢だと?」
「毎晩のように見ます。
 舞う朱、閃く銀。その向こうに見える、『むげん』の技を振るう、『鬼』」
『『鬼』……』
 口の中で、半蔵は繰り返した。
 閑丸はそれには気づかず、どこか虚ろな目で言葉を続けた。
「夢を見るたびに僕は、剣の使い方を知っていく……思い出す……? 僕は……夢を見るのが恐い……でも、見ないと……もっと……わからない……僕には…何も……」
 雨音が変わった。
 半蔵は、窓に目を向けた。雨は弱くなり、遠ざかっていくようだ。
「だから、僕は、『鬼』を探しているんです……僕の中で、たった一つ、確かなもの、だから……」
 苛立ちと怯えと、悲痛な想いが、閑丸の言葉と目を満たす。
「あのっ!!」
 閑丸は叫んだ。
「あなたは、僕を…いえ、僕の剣技を知っているのでしょう!? それは誰のものなのですか、どんな人なんですか、『鬼』ではないのですか!? 教えてください、どうか…!」
 閑丸の声が、眼差しが、身に突き刺さるように感じた。必死に、己の知らぬ己の答えを求めようとしている。
――……まだ、…………
 弱い雨の向こうで、鴉の声が、した。
 半蔵は何も言うことなく、閑丸を一瞥することもなく、立ち上がる。
「あっ」
「出てくる」
 足早に部屋を出ていく。声もその背も、閑丸の問いに答えることを拒んでいた。
 小さく楓は息を洩らす。
 忍として、言わなかったのか。
 言えなかったのか。
「あの……」
 すがる視線が、楓に向く。
「……あの人が何も言わないのなら、私も何も言えません」
 首を振り、言う。
――私は、言いたくない。
 違う、と思う。何が、とはわからない。だが何かが違う。だから言えない。言いたくない。
 言っては、ならない。
「どうしてですか……どうして、教えてくれないんですか……僕は……僕には…『鬼』しか、ないんです」
「ごめんなさい。でも、言えないのです」
 静かな言葉に乗った強い響きに、閑丸は口をつぐむしか、なかった。
 そんな少年から視線を逸し、楓は窓に目を向けた。
 雨は、随分と力を失っていた。

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