迷雨 参


 半蔵は傘を借り、宿を出た。傘は少し古びた、ごく普通の朱傘だ。
 乾かすために土間に開いて置かれていた閑丸の傘は、青かった。青地の傘の縁と中とにくるりと二つ、黄の円が描かれていた。
――そういえば……
 あの時―あの日も激しい雨の日だった―に貸された傘も、そんな色だったような気がする。
 無理矢理手に掴まされた、だが、拒まなかった。
 あの傘は、あの男には少し小さかった。
 己には、大きかった。
 大きかった。
――あの者にも、大きいな。
 そんなことを思いながら、町の外れまで、歩く。
 雨は次第に弱くなってきている。そろそろやみそうだ。足を早める。
 雨のおかげで、外れの辺りには人気はない。
 空き家の軒に入ると、傘を閉じ、壁に立てかける。
 目を上げれば、灰色の空に円を描く黒い影がある。
 左腕を上げ、ひうっ、と口笛を吹く。
 黒い影の動きが止まったかのように見えたかと思うと、見る間に大きくなる。
 影は勢いよく走り、地に衝突する寸前で、ふぃと身を上げ、軽く浮き上がった。
 黒い丸い目が半蔵を見、「くわ」と一声枯れた声を上げる。
 そして老鴉は半蔵の腕にすうっ、と乗った。雨に濡れ、艶を帯びた黒い姿が美しい。
 その足に結わえられた細い竹筒を、半蔵は取る。
 中には、小さく小さく畳まれた書状がある。
 鴉を右腕に乗せたまま、半蔵はそれを読んだ。

『 おにのこと
  みせにて  』

 それだけが書かれていた。
 くしゃりと半蔵は書状を握りつぶす。朱い焔が、その手でちらと揺れた。
「承知、と」
 鴉は僅かに首をかしげ、黒い目で半蔵を見た。
 『心得た』とでも答えるかのように。
 そしてばさりと翼を広げると、まだ弱い雨の降る空へ飛び立った。
 灰色の空で輪を一つ描き、二つ描き、くわ、とまた一声鳴くと、彼の主の元へと飛び去った。
 半蔵は傘を取った。
 開いた左手から、さらと灰がこぼれ落ちる。
――………?
 取った傘を開こうとしたとき、視界に人影が入った。
 さあっと風が吹き、雨足がまた強くなる。
 だがその女は、傘も差さずに立っていた。
 若く、美しい女である。長く艶やかな髪は薄紫の飾り布で軽く束ね、裸身に飾り布と同じ色の着物を羽織っただけの姿。
 女の身は雨で濡れた様子はなく、雨は女など知らぬように、その身をすり抜けていく。
 その様、この世のモノではないことは明らかである。
「……何奴」
 傘を持った右手を、身の前に置く。
 この世のモノでない女。今のところ敵意は感じないが……
――この女……
 この悲しげな目は、何なのか。
 深い悲しみ、己のモノではない「かなしみ」に満ちた目で、女は半蔵を見つめている。
『……………』
 半蔵を見つめる女の口が、動いた。
 何かを伝えようと、二度、三度。しかし『音』は聞こえない。
「何を、言いたい?」
『……………!』
 女の頬を、涙が伝った。
 白い手を差し伸ばし、ある方向を示す。
『バ……サ……ラ………』
 女の唇が形作る『音』がようやく読みとれる。
「バサラ? 破沙羅…首斬り破沙羅か!」
 蒼い闇の中に出現した、この世ならざるモノ。『鬼』を憎悪し、同じ血を分けた楓をも狙ったモノ。
 胸の奥が、冷える。
『トメ……テ……バサラヲトメテ……!』
 女の示すのは、半蔵が来た方向、宿のある方向。
 楓が、いる、場所。
 蒼い闇に先が閉ざされているような錯覚を半蔵は覚えた。
――…楓!
 傘も差さずに走り出す。女のことは故意に忘れた。
『オネガ……イ……』
 故に、『音』にならぬ声がその後を追ったことに半蔵は気づかなかった。

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