|
「……楓さん!」 荷の整理をしていた楓は、ただならぬ閑丸の声に顔を上げた。 「何かが…………来るっ」 同時に、しんと音が途絶えた。 途絶えた音の代わりのように、とろりと気配が広がる。 やるせないまでの憎しみと、悲しみから生まれた、狂気。 狂気が満ちると共に、部屋は蒼い薄闇に閉ざされていく。 あの時と同じ、生気の無い、冷たい蒼い闇が空を満たす。 「これは……」 「下がって」 楓は懐剣を抜くと、構えた。 半蔵は、いない。守ってくれる人は、いない。 しかしそのことが却って今の楓を支えていた。守る人がいない中でなお生きなければならない、その想いが湧き上がる恐怖を抑えつける。 「破沙羅、どこです!」 「ココだヨぉ……」 声は、足下からした。 慌てて飛び退さって目をやれば、そこにはぽつりと小さく、しみがある。しみは見る間に大きくなり、影となってわだかまる。 「見ぃつケたぁ……」 影が滑る。楓の周囲をぐるりと回る。 「ユルサないから……おレハケッして、ゆるサないかラ……」 一度は大きく。二度は小さく。三度はより、小さく。 「クく、ヒハはっ、おれカラハ、ニゲられ、ないよオおオおッ!」 一際大きな叫びと共に、影が伸び上がり形を為す。 三枚刃の回転刀を振りかざす、首斬り破沙羅という名の狂気の化身の形を為す。 破沙羅は己が出でた影を引きちぎって楓の前に降り立った。 「にげ、らレ、ナい、ヨ」 ぴたりと喉元に刃を突きつける。 「知っテルよぉ……あいツは、ジャまをシタアいつハ、いナい……イナイうちに、おマえをたッぷりこロしてヤロウなぁ」 狂った笑い声を上げながら、ざわり、と刃で楓の頬をなでる。 「なにを…!」 「あいツガモどってキたら、かナシムだろうなぁ、クるしムだろうナァ……ククッ、オレのようニ、かなシンデくるしんデクルウだろウ……」 楓が懐剣を握った腕を振るうより早く、ずい、と顔を近づけ、嗤う。だがその目は、以前と同じく澄んだ涙を流し続けるその目には狂気はなく、ただただ深い悲しみだけが、あった。 「破沙、羅……?」 「アンしんしろぉ……あイつもすグニころして殺るヨォ……そうすレばオマエはヒトリじゃなイなァ……オレと、チが、って…………!」 怒りと憎悪が、叫びを彩る。その瞬間、破沙羅の目が変わった。悲しみの目から、憎悪に狂った妖かし……否、鬼の、目に。 楓はとっさにしゃがみ込んだ。 弾みでふわりと浮いた髪の先が、音もなく断たれる。 「ヒャァッ!」 狂った叫びと共に、破沙羅は蹴りを楓に見舞った。 「あぁっ」 破沙羅の痩躯からは信じられないほどの力で蹴り上げられ、楓の体は軽く高く宙に舞った。 「ククッ、どコカらいこうカぁっ」 回転刀を振り上げ、その勢いに乗るように破沙羅は跳ぶ。 「うでが……ヒハっ、おチルヨォ」 歪んだ三枚刃が、しゅるりと風を巻く。 鈍い光が刃を滑る。 ――あ…… 舞う紅、声無き悲鳴、虚に落ちる黒い、目。女。 『その先の光景』に閑丸は、目が眩むのを感じた。 ぐるりと世界が回る。 「わああああああっ!」 どんっ 手に伝わる、鈍い感覚。 「ヒィヤァッ!」 破沙羅の体が壁に打ち付けられ、ずり落ちる。 「あぅっ」 楓が背から落ち、声を上げた。 ――あ………? 閑丸は呆然と、倒れた二人を、見る。 倒れた楓に傷はない。 ――今のは……まぼろし…? あ……? 閑丸は、自分の右手に握られた「大祓禍神閑丸」に、気づいた。 いつ取ったかわからないそれは、黒塗りの鞘がついたままだ。 ――そうか……僕が…… 楓を刃が裂く前に、アレを刀で、打った。 ――黙って、見てるわけには、いかない、から。 『鬼』を知る人だもの。手がかりとなる人だもの。そう、だから。 「キぃ、きィ……」 上がった声に、鞘のついたままの刀を構える。 その切っ先の向こうで破沙羅が立ち上がり、回転刀を振りかざす。 「キィサぁまァ……っっッッ!」 跳ねるように破沙羅は閑丸に飛びかかった。 ――速いっ! がんっ かろうじて、破沙羅の一撃を受け止める。 「ナぜジャマを、するウっ!」 目の前に、破沙羅の顔。 狂気に歪んだその顔のその目からは、涙が流れ落ちている。 「ジャまをするモノハスベて、殺スぅぅぅぅぅっ!」 回転刀を握る破沙羅の手に力がこもり、力任せに刃を閑丸に押しつける。 歯を食いしばり、足を踏ん張って閑丸は堪えようとするが、破沙羅の痩躯からは想像もできない力に、じりじりと押し負けていく。 回転刀の一枚の刃の先が、ちくりと閑丸の額に触れた。細く、赤い血が流れ出す。 破沙羅の顔が悲しげに歪んだ。 「……同じ、くせに……」 すすり泣くようなその声は、確かに正気のものだった。 「…………?」 「何故、邪魔をするぅ……オナジくせに……ぃぃぃ……ィィッ!」 「!?」 一瞬、閑丸の腕から力が抜ける。 かっと破沙羅が目をむいた。正気は消え失せ、憎悪と悲痛に満ちた狂気が破沙羅の全てを支配する。回転刀を押し込む力が、さらに強くなる。 閑丸の前に踏み出している右足が、浮いた。 左足だけでは支えきれず、一気に破沙羅に押され、上体がのけぞる。 ――……ココデ死ンデハナラヌ……! のけぞった反動を利用し、浮いた足が無理矢理に踏み込まれる。 どんっ! 「ぎゃンッ!」 ただそれだけで、何かにはじかれたように破沙羅の体が、跳ねた。 「やあっ!」 回転刀を受け止めていた刀を振り抜く。重さない物のように、破沙羅の痩躯が飛ぶ。 その身を追って、閑丸は振り抜いた刀を上方に返しつつ走る。 「たああああああぁぁぁっっっ!!」 振り下ろす。 「ヒハハははっっ!」 哄笑と共に破沙羅は宙で身を捻り、「空を蹴って」閑丸の一撃を躱わす。 「ほいよっ!」 破沙羅の手から、揺らめく光が放たれる。 「くっ」 緩やかに飛ぶ光を躱わし、刀を振り上げる。 「あマァい」 ふわりと降り立ちながら破沙羅が笑う。 その大きく見開かれた目、狂気に満ち、涙を流し続ける目に、光が映る。光はゆっくりと大きくなる。 ――……あれは……! 慌てて振り返れば、そこには緩やかに舞う、光。やさしくそれは、閑丸に触れた。 「あ…あああああっ!」 がんと頭を殴られたような衝撃が閑丸の全身を貫き、小さな体がびくんと大きくけいれんする。 そのまま力無く閑丸は倒れた。衝撃は一瞬だったが体には強い痺れが残り、まるで動けない。 「鵺魂ダよぉ……おマエニ殺サレた、逝キバのナい魂……ククッ、苦しイだろウ?」 クツクツと笑いを洩らしながら、破沙羅は閑丸に歩み寄る。 閑丸はどうにか体を動かそうと必死にもがいてみるが、指の先すら自由にならない。 「コノひヲまッたよぉ……俺の、痛み、篝火の、イタミ、返シテ殺るヨぉ……」 じゃっ、と破沙羅の腕に絡んだ鎖が吼える。振り上げられた回転刀の三つの刃が、蒼い闇を裂く。 「『鬼』いぃィィぃぃ!!!」 このばけものは、なにを、いっている? がきんっ 鈍い音に、閑丸は我に返った。 ――楓さん…… 「させま、せん」 懐剣で回転刀を受け止めた楓の姿が、そこにあった。 「きサマぁっ!」 ぎぃんっ 「っ!」 力任せに破沙羅は回転刀を振り抜いた。懐剣が楓の手からもぎ取られ、くると回って床に突き立つ。 「死ネェ……!?」 大きく回転刀を振り上げた破沙羅の目が、楓と閑丸から、外れる。 遠くで何かが割れる音がしたような気がした。 破沙羅の視線の先から走り来る、影。 「キサマッ!」 怒りの声を破沙羅が上げた瞬間、影はその脇を走り抜けた。 影が払ったかのように、薄闇が晴れる。 「…………?」 不思議そうに破沙羅は頭を動かす。 回転刀を振り上げた、己の腕を見る。 その腕が、不自然な向きに傾いた。 ……ざく。 回転刀が床に突き立ち、その側にじゃらりと鎖を鳴らしながら腕が落ちる。 どろりと黒みがかかった赤いものが傷口から溢れ出す。 「ひィァぁぁ……っ! きサマぁああっ! ヨク、ヨくもおおぉォォっ!」 狂気、苦痛と憎しみ、怒りに顔を歪めた破沙羅の絶叫が、空気を震わす。 その激情をも貫かんばかりの鋭い目で、半蔵は破沙羅を睨み据えていた。右手に構えた抜き身の刀からは、破沙羅の傷から流れるものと同じ色の雫が、ぽたりぽたりと落ちている。 正に握っていたそれをくるりと回し、逆手に構え直す。 同時に、疾る。 だがそれより早く、破沙羅が身を伏せる。 刹那遅れた刃は、空を薙ぐ。 薙いだ後を嘲笑うように、破沙羅が跳ねた。 落ちた回転刀を左手に、落ちた己が腕を口にくわえて。 天井にするりと闇が広がる。 その中に破沙羅は飛び込んだ。涙を流し続ける狂った瞳で三人を凝視しながら。 『諦めナイよォ……必ず返してやる……コロシテやる……『鬼』をスベテェェェッ!』 その声は、はっきりと三人の耳に届いた。 破沙羅を呑み込むと、闇は天井板に染み込むように、消え…… ――む。 その直前、影に吸い込まれるおぼろな姿を、半蔵は見た。 『バサラ……』 悲しい声が、耳に残る。 それは半蔵にバサラの存在を知らせた、あの娘だった。 娘を受け入れると闇は完全に、消えた。 ――あの娘は…… 破沙羅と関わりがあることは間違いないだろう。だが一体何者なのか。破沙羅のような狂気には憑かれていないようだが…… 「……あなた?」 「……ん、ああ」 刀を鞘に収める。血の痕は、無い。曇り一つ、刃には残っていなかった。 それだけではない、部屋にはいましがたの事の形跡は何もなかった。以前のような刃の跡すら残っていない。 それを視界の端で確認しながら、妻を見る。安堵のためか、黒い目が潤んでいる。 「怪我は、ないか」 「大丈夫です。閑丸さんが守ってくれましたから」 隠すように重ねた手に切り傷が見えたが、軽いもののようだ。 「そうか……」 ようやく立ち上がった閑丸に顔を向ける。こちらは見たところ傷はない。 「すまぬ。 楓を守ってくれたこと、感謝する」 「いえ…………」 首を振る閑丸は、心ここにあらずの様子である。 『オナジクセニ』 『「鬼」ィィッ!』 破沙羅の言った言葉が、頭の中で何度も繰り返して思い出され、消えない。 ――同じ。 破沙羅も『鬼』に関わる者……? 『鬼』に何かを奪われたのか……? ならば。 ――どうして僕を、『鬼』と、言った……? 僕は…… 「……閑丸さん?」 「……え? あ、は、はいっ」 目の前に楓の顔があるのに気づき、閑丸は狼狽した。 「大丈夫ですか? 怪我はないようですが、さっきの光の何かが残っているのではないですか?」 膝をついて閑丸の乱れた着物を整えてやりながら、楓は問うた。 「あ、だ、だいじょうぶです。もう、なんともないですからっ」 閑丸は慌ててぱたぱたと両手をふる。 ――……む? その手に握られたままの宝刀に、半蔵は怪訝な目を向けた。 「閑丸」 「……なんですか?」 「何故、抜いていない」 「……え?」 「お主の刀だ」 何を言われたのか把握できなかったらしい閑丸に、半蔵は言葉を足した。 「……あ」 黒塗りの鞘に収まったままの宝刀に、今気づいたような目を閑丸は向けた。体が痺れてもなお、離すことのなかった、宝刀。 「…わかりません……夢中、だったし……それに……」 宝刀を、一寸ほど、抜く。 刀身には曇り一つなく、武器には似合わぬ静謐な輝きを宿している。 「……抜いてはいけない気がするんです……これは、その時にしか、抜いてはいけない……」 かちん、と収める。 ――その時、とは? そう疑問に思いながらも、今度は半蔵は口にはしなかった。 何も語らぬ宝刀を見つめる閑丸に、答える言葉などないことに気づいていたから。 半蔵にはその目がまた、全てを映し、何も映さぬあの目に、見えていた。 |