浮草 弌


 一つ所に定住し、その地の生活に溶け込んで様々な情報を集め、時には役目を帯びた者の手助けをする。そのような忍を「草」という。
 「草」の中には、定住することなく、日の本の国の各地を旅する者がある。
 それを「浮草」という。


 一人の老人が峠の茶店で一息ついていた。年の頃は五十の半ばほど。小柄でやや細身であるが、腰はしゃんと伸びており、動きには力がある。左腕がなく、左の袖は緩やかな風にゆらゆらと揺れている。
 この老人は伊賀の浮草である。
 名は、弥六。
 かつては服部半蔵の名を預かっていたほどの忍だ。もっとも今のこの姿から、当時のことを思い浮かべるのは難しいのであるけれども。
「くわ」
 茶店の屋根に止まっていた一羽の老鴉が声を上げる。
 弥六は自分の左方へ目を向ける。
 こちらへやってくる三人の内、始めに目に入ったのはその男―現在、服部半蔵の名を名乗る男だった。
――三人?
 目を細め、改めて見直す。
 一人多い。
 半蔵と、女―妻の楓のはずだ―と知らぬ少年。
――……はて。
 軽く首をかしげ、しかしなにやら楽しそうな顔で、弥六は三人を待った。


 新しく来た客に茶と団子を出すと、茶店の女はさっさと店に引っ込んだ。にこにこと愛想のよかった割には、すばやい。
 弥六は自分の後ろの長椅子に並んで座っている二人―楓と赤い髪の少年―にちらと目をやってから、隣の半蔵に顔を向けた。
「いつ、三人目を作られたさ?」
 応じて目を弥六に向けようとした半蔵の動きが、数瞬、止まった。
「……お戯れを」
「そうさね」
弥六は顔を正面に向けた。言う唇は、動きを見せない。低い、半蔵が聞き慣れた声だけが耳に流れ込む。
「されど、似ておるさ」
「……鬼を、求めております」
 半蔵も顔を正面に向ける。やはり唇は動いていない。
「己の知らぬ己を知るため、と」
「忘れの病さ?」
 もう一度、後ろの少年を振り返って見る。
 楓と談笑しながら、茶を飲み、団子を食べている。その顔には、あれぐらいの年頃の少年が持つ、年上の女性に対する照れくささと憧れとがあるように見える。背の宝刀と大きな番傘は少年には奇異な組み合せだが、それを除けばごくごく普通の少年である。
「…………」
 振り返った弥六に、きょと、と少年が目を向ける。
 一つ笑みを軽く見せ、正面に顔を戻す。
「…黒い目さ」
 ぽつりと、言った。


 振り返った老人は、閑丸と視線が合うと、にこりと笑んだ。
 しかしそれだけで、ふいと顔を背ける。
 することだけをして、さっさと消えた茶店の女と同じように。
「………?」
「どうしました?」
 首をかしげた閑丸に、楓が問うた。
「……あのおじいさんは?」
 弥六という名だけを聞いたあの老人は、この茶店で半蔵を待っていた。それはわかる。半蔵もあの老人に会うためにここに来た。つまり、あの老人は『鬼』を知っているに違いない……
――だったら、僕も、話を聞きたい。
 楓は、少し困った様子を見せた。
「あ、すいません……」
 無理矢理ついて行くような形で共に旅する内に、この二人がただの浪人夫婦ではないことは閑丸にもわかっていた。詳しいところを知るよしはないのだが。
 だがそれでも、触れてはいけない何かを持った夫婦だということは、わかる。
「いいえ。ただ、なんと言ったらいいのかしら、と思っていたのですよ。私にもうまく説明できませんから……
 そうですね……あの方は」
 そっと、閑丸の耳に顔を寄せ、口元に右手を添え、囁く。
「あの人の、大事な方」
「半蔵さんの?」
 思ってもみない答えに、閑丸は目をぱちくりとさせる。
「ええ」
 頷いた楓の目は、とても、優しかった。


「よい目か、悪い目か……わからぬ目さね。
 あの時のような、さ」
「…………」
 弥六の言う『あの時』がいつか、誰よりもよく知る身であったが、半蔵はそれに言葉を返さなかった。
 まだ少し熱い茶を飲み干し、湯呑を脇に置く。
「『鬼』のことを」
「そうさね」
 弥六は、湯呑を持った手を膝の上に置いた。
「まずは、昔の事から話しておくさ」
「昔の事……とは?」
「『けもの』の事さ」
 半蔵の目が、すいと細くなった。
「……名を譲ってから、儂はずっと、あれの消息を追っていたさ。
 鎧殿はご存じだったようだが……」
「それとなくは」
 問う眼差しに、短く答える。
 このことを「伊賀の鎧」たる藤林伊織から直接聞いたことはない。しかし半蔵も『鬼』のことを気にかけていた。自らが動くことは出来なかったが、弥六が動いていたことには気づいていた。
「そうさね。
 しかし、あれから『鬼』は現れなかったさ。あの男、『鬼』を制したように、見えたさね……」

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