浮草 弐


 忍は、折にふれ、その男を見ていた。
 その男は、忍の左腕を奪った。
 その男は、忍の跡を継いだ者の大切な存在だった。
 だから忍は、男を見ることにした。
 『人』と『鬼』の間で揺らぐその男を、見ることにしたのだ。
 男は己が心と腕を鍛えるために諸国を巡り、ただひたすら、それのみの日々を送っていた。
 その中で確実に男は腕を上げ、己を磨き、『鬼』は、制されたようだった。
 忍達の前に現れた、あの『鬼』は、一度も現れなかった。
 そうこうする内に、ふとした縁で男は妻を娶り、子を設け、『人』として、『鬼』をしずめ、まずまず平穏で幸せな生を進んでいくようだった。

 しかし。

「五年前、さ」

 男はその年九つの息子と共に、旅に出ていた。
 息子が七つになった年から、己の更なる鍛錬と、男の技を受け継ぐはずの息子の修行のために、男は諸国を巡るようになっていたのである。
 その旅の途中、ある藩で事件は起きた。
 もっとも、当初は事件と呼ぶほどのものではなかった。
 男がある道場の師範代との試合に勝った。破れ、面目を潰された師範代は道場の門弟や身内を集め、親子を襲った。
 それだけであれば、よくあることである。道場破りが破った道場の一門に報復され、時には殺される。それは当然のことであり、それにどう対処するかが道場破りの腕でもある。
 問題なのは、その師範代がその藩の家老の息子だった、ということである。
 それを知った忍は、師範代達を追った。
 ただ襲われただけなら心配することなど何もない。男ならば、どんな相手だろうとまず遅れは取るまい。
 だが……何とも言えぬ嫌な予感が忍の胸をよぎったのである。理屈では何も説明できぬ、勘とでも言うしかないもの。
 その勘は、これまでと同じように、的中した。


 襲撃場所である国境の峠に忍が着いたときには、既に親子は取り囲まれていた。
 取り囲まれていても、七尺を超す男の巨体はよく見える。その側に九つの少年がいるのもどうにか見て取れた。
 十間ほどの距離まで近づき、様子を伺う。
 まだ若い師範代が、口汚く男を罵っている。
 だが男も、幼いその息子も、それに耳を貸していない。言うがままにさせている。そうしながら、親子がさりげなく刀に手を掛け、『その時』をじっと計っているのが、忍には見えた。
――……? なに…さ?
 忍は眉をひそめた。こめかみの辺りに不快感がある。
 視線を動かす。
――あれか。
 木の上に影が見える。それが、棒状の物―鉄砲を構えている。
 考えるより早く、忍は手裏剣を放っていた。
 乾いた、やけに大きな音。同時に影が落ちる。

 遠くで、誰かが倒れる、音。

 全てが、その音に、飲み込まれたかのようだった。

 忍は、それを、見た。
 言葉を失った襲撃者達。
 ただ一点を見つめ、動かぬ男。
 その傍らにさっきまであった姿が、なかった。


「始めからそうであったのか、儂の放った手裏剣のせいか。
 撃たれたのは、息子であったさ。
 即死、だったさ」
 目をほんの僅か伏せ、それでも声の調子は変わらず、静かに、弥六は言った。
 責めも悔いも、そこにあると見えた。
 しかし老人はそれら全てを受け入れていた。己の内にそれらがあることを知っていた。
 そしてそれらを心に置いたまま、為すべきことをしようとしていると、半蔵は感じた。
 強いのではない。弱いのでもない。自分が為さねばならぬことを、知っている。ただそれだけだ。
――己の、為さねばならぬこと、か……
 『鬼』を討たねばならぬ男は、自分の両の手を、見下ろした。


 空気が、いや、その場の空間が震えるのを、忍は聞いた。
 小刻みに、深く、重く、全てが震え出す。
 震えはやがて、唸りに変わった。
 低く重く、圧倒的な『力』がそのまま音に変わったような、唸り。
――………哀れ。
 忍は、唸りの中心である男を見つめたまま、唇をそう動かした。
 何故その「言葉」なのかは、わからない。
 『唸り』は徐々に大きくなる。それに従い、凄まじいただ一つの感情が場を支配する。


絶 望


 怒りでもなく、哀しみでもなく、ただただ深い絶望だけが、『唸り』の中にあった。
 その『唸り』に引きずられるように、取り囲む者達の顔にも絶望が色濃く表れる。だが、彼らはぴくりとも動かなかった。逃げようとも、攻撃しようともせず、立ちつくすのみだった。
――哀れ。
 もう一度、忍は言葉を型どった。
 忍は知った。
――一つ、さ。
 瞬間、ぴたりと『唸り』が止まった。

 男が刀を
 振る。
 振る。
 振る。

 剣術などと呼べるものではなかった。
 刀を振り回す。それだけだった。
 それだけで十分なのだ。
 人並はずれた巨躯と、五尺に余る大太刀を持った男には、人を壊すなど、それだけで十分なのだ。

 あっという間に、襲撃者達は物言わぬ肉の塊となり果てた。
 忍はそれを、ただ見ていた。動けなかった。
 男の振るう剣の、あまりの凄まじさと、それがもたらすあまりの、恐怖に。
 男が忍を見る。何も映さぬ、茫洋とした目とは裏腹に、唇がぐいと喜悦に歪む。
 『逃げる』
 それだけしか、頭にはなかった。微かに何かある気がしながらも、体は勝手に全力で地を蹴り、跳んでいた。
 全く同時に耳元で、空がうおんと叫んだ。

 その後男がどうしたかは、山肌を転げるように下り、逃げ延びた忍にはわからない。
 一刻ほどしてから、忍がその場所に戻ったときには、男はいなかった。
 残っていたのは、物言わぬ死体だけ。
 我が子の遺体すら置き捨て、男は姿を消していた。

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