「後は、お主も知る通りさ。 『けもの』と堕ちた男はいくつもの村を襲い、人を殺し、そして、唐突に消息を絶った」 「…さようでしたか」 それだけを、半蔵は返した。 胸に重いものがある。様々な感情が胸の奥で渦巻く。それらは形にならず、形になれず、それ故か苛立ちを感じる。 それは、遠きあの日に感じた苛立ちとよく似ていた。 それが知らないこと、知ることのできないことへの焦燥が生み出すものであることを、今の半蔵は知っている。決して己が理解することのできないものに、感じるものであることを。 だが、たとえ知ることができたとしても、知らぬままだとしても、何も、変わらない。変えることなどできはしない。 「そして男はまた、現れたさ。今度は『鬼』として。 人を斬り、殺しているさ」 「して、『鬼』は」 今、知らねばならぬのは唯一つ。 「……………」 弥六は店の方に振り返ると、茶のお代わりを頼んだ。 とん、とんと右膝を中指で、打つ。 「……禁を承知でお訊ねするさ。 『鬼』を、どう……」 「禁故。それは」 早口に半蔵は弥六の言葉を遮った。受けた任のことは問うてはならず、答えることもまた、ならぬことである。命じられたことより他を、忍が知る必要はない。 ――それがわからぬ方ではないはずだが… なぜ弥六がそう言ったのかがわからず、そのことが半蔵の口を開かせた。 「なれど」 女が急須を持って現れたので、言葉を切る。 女は、弥六と、半蔵の湯呑に茶を注ぐと、急須を弥六の脇に置き、店に戻った。 「なれど?」 「御命は果たしまする」 「命、さね」 「は」 ――己に言い聞かせているようさ……しかし、それでは。 「故に」 半蔵はひた、と弥六を見た。 「………儂の知るは二つさ。なれど、今はすべては語らぬさ」 半蔵に視線を向けぬまま、低く弥六は言った。 「………?」 「加賀と富山の国境に、長串村という小さな村があるさ。そこにまずは行かれるがよいさ。 いま一つは、その後」 「何故に」 「後の事さ」 ぼそりとそっけなく言うと、弥六は口元に湯呑を運んだ。 ず、と一際大きく音を上げ、茶をすする。 「………承知致しました」 命を受けるときのように、目を僅かに伏せ、半蔵は言った。 「……ん」 頷き、ほう、と弥六は息を吐いた。 くわ、と、鴉が鳴く。 「…………………」 半蔵は、空を見上げた。 空は青く晴れ渡り、雲一つない。澄んだ青は、どこまでも広がっている。 ――………まだ、あるのだろうな。 「それ」を見たいと思った。無性に、「それ」が見たくなった。 弥六は半蔵に目を向けた。 半蔵はふいと立ち上がる。それは弥六の視線に押されたためとも、視線から逃れるためとも、見えた。 店の女に声をかけ、裏手へ消える。 背を見送りながら、弥六は立ち上がる。 「………?」 怪訝に、閑丸は首を傾げた。 「さて、さて」 言いながら、立ち上がった老人はくるりと振り返った。 長椅子をゆうっくりと回り、閑丸と楓と向かい合う位置に座り直す。 自分で湯飲みに茶を注ぎ、にこにこと、一口。 「あの、半蔵さんは?」 人の良さそうな、小柄な老人、だが、何か気になる老人をちらちらと視線を向けつつ、閑丸は楓に尋ねた。 「………………」 「行ってくるさね?」 「え?」 思いもしなかった方から戻った答えに、閑丸は老人を戸惑いを浮かべた目で、見た。 「見ておくが、よいやもしれぬさ」 「……………」 老人の目には穏やかな光がある。だが、その向こうには何も見えない。 何もないのではない。だが閑丸には見ることのできない深さだ。 「…………………はい」 こくり、と閑丸は頷いた。 裏へ向かう閑丸は、傘を手にし、剣を背負ったままだった。 「なぜでございますか?」 茶店の陰に入っていく閑丸を見る楓の目には案じる色があり、声には弥六をとがめる響きがわずかにあった。 「さて……似ておる、から、やもしれぬさ」 同じように閑丸の背を見たまま、静かに弥六は答えた。 「似ている……? そう…思われますか」 誰に、とは弥六も楓も言わなかった。 「あれも、ただ一つしか知らぬものさね」 「一つ、ですか?」 虚を突かれた、そんな表情を楓は弥六に向けた。 「一つさ」 「そう……そうかも、知れませんね……」 伏せた楓の目には、消しようのない陰がある。先ほどまでは抑えたか、隠していたか、姿を見せなかった陰。だがそれはずっと、その心にあったに違いない陰だ。 「聞きたいことがあるさ」 やはり静かな口調で、弥六は問うた。 「……はい」 「命を受けたさね」 「はい」 「何故さ」 命は拒めぬもの。だが弥六の問いはそのような表のことではない。それは楓にもわかっている。だから楓は、忍ではないものとして、答えた。 「私の意志です」と。 「それはあれにしてみれば、お主に見せることになるさ」 「はい」 「いやがるだろうさ」 「今も嫌っております。それはわかっております」 声が、僅かに揺れた。 夫の心を思えば、自分はいない方がいいのだろう。それはできないことだから、せめて、命を望んで受けたのではないという気持ちだけを見せればいいのかもしれない。 だがそれは、できなかった。 どちらも大切だから、二人が殺し合う様を見たくない、そんな想いよりも、どちらも大切だから、二人が殺し合わなければならないのなら、それを見届けたいという想いの方が強く、ならばそれを隠すこと、偽ることはできなかった。 「共にあろうと、なかろうと、どちらかが、あるいはどちらも死に、私は失うのです…… ならば、私は、共にあって見届ける方を選びます」 目は伏せられたままであったが、その声には静けさが戻った。 「……もし、命を拒んでしまえば、私は何もできなくなってしまいます。憎むことも、恨むことも、悲しむことも……喜ぶことも。 それは、結局、大切な者を失ってしまうこと……。ですから、私は」 「そういうなら、よいさ」 弥六は頷いた。 「しかし……二十年、あったさ」 「それで変わることができたなら、どれほどよかったことでしょう……」 夫と共にある旅の日々は、自分の心の内に、『兄』である人への想いが褪せることなくあることに気づかされる日々でもあった。 母を、父を幼くして亡くした楓の、たった一人の肉親であった『兄』である人。『兄』であると同時に、親のようでもあった人は、楓にとって大きな大きな存在だった。当たり前だったその事実を、今ようやく実感している。そんな気がする。 その人を失う旅の中でそれを知る、皮肉。 「易々と変わることのできるものでは、ないさね。あれも、ちぃとも変わらぬさ」 楓の口元にほのかな笑みがさした。それは、陰を濃く抱いたものであったけれども。 「それが、あの人ですから」 「さね」 至極真面目に、弥六は頷いた。 |