浮草 四


 店の裏手に「それ」は、当然のように在った。
 土を盛った上に石を置いただけの小さな二つの墓は、もう三十年近くここにあるのだ。
――変わらぬ、な。
 放って置かれたならば、いずれ草が生い茂り、その中に消えていったであろう。
 だが、店の者が気を使ってくれているのだろう。綺麗にその周囲は掃除されており、あの時と変わっていないように思える。
――…………………
 遠いところを見るように、半蔵は目を細くした。ここに来たのもずいぶんと久しぶりだ。いつも、もう無いだろうと思いながら、あるのを見て安堵している己に気づく。同時に、一抹の寂しさと懐かしさが心に宿る。
 それは、ここが、「いた」場所だったからかもしれない。
 父と、母が在って、己が在った場所、だったから、だ。
――ここから、か……
 突き詰めれば、ここで先代半蔵―弥六に拾われたことが先のことに繋がり、導いたことになるのかもしれない。そしてあのことに繋がったのかもしれない。
 弥六がここに呼び出したのは、そのせいかもしれない。
 「はじめ」を知れと、言いたかったのかもしれない。だから、『けもの』の始まりを話したのか。終わらせるためには、はじまりを知らねばならぬものだと。
 だから、見たくなったのかもしれない…
――……
 もはや、なんと呼んでいたかも思い出せぬ父母だ。だが、父母である。何ものもそれを変えられないし、己もそれを捨てられない。
――そうか……
「……………………」
 視線だけを、動かす。
「……なんだ?」
 どこか困った顔で、閑丸が立ちつくしている。しばらく前から閑丸がここにいたことに、半蔵は気づいていた。
「あ、え、いえ、あの……」
 なんと言えばいいのかわからず、閑丸は口ごもった。
 じっと二つの塚を見つめている半蔵はこの「空間」に溶け込んでいるようで、声をかけづらかったのだ。
――ここは、半蔵さんの場所、なんだ……
 他者が踏み込んではならない、そんな場所に違いない。
 胸の奥がずきりと痛んだ。
「あの…あれは………?」
 言葉に困って、閑丸は半蔵が見ていた並んだ二つの塚を見た。
「墓だ」
 半蔵は二つに歩み寄り、片膝をつく。
「誰の、ですか」
 その背を追って、数歩前に進む。
「父なる人と」
 一つの墓を見る。
 ざわりと閑丸は心が騒ぐのを感じた。
「母なる人」
 もう一つを、見る。
「半蔵さんの、お父さんと…お母さん」
――苦しい……
 閑丸の右手が本人の意識無く胸元を強く押さえる。
「顔も覚えていないがな」
 半蔵が先代、弥六に拾われたのは幼いころであったから、ここでのことは覚えていないに等しい。
 父であった人、母であった人の顔も、声も、思い出せない。切れ切れな思い出が、僅かに在るだけだ。それとて後に弥六に聞いたことを、己が内にあったものだと思いこんでいるだけかもしれない。
 だが、それでも…
「それでも!」
 震える声に、頭を巡らす。
「あなたは、知っている……。覚えてなくたって、知っているじゃないですか!」
 激情のためか少し潤んだ黒い目が怒りを露わにし、射抜くように半蔵を見据えていた。
「僕は、何も、知らない!」
 羨ましい。覚えていなくても、半蔵は自分に父と母がいたことを知っている。いた証もここにある。
「己の場所」を持っている!
「僕は『鬼』しか知らない! 何も、何も僕は……!」
「知っている、か……」
 ぽつん、と半蔵は呟いた。
 確かに知っている。覚えていなくても、己は己がここから始まったことを知っている。
 だが知っているということを、今日ここに来るまで忘れていたかもしれない。遠い存在であり、知っていることが当たり前になっていたが為に。
 そのことに己でも意外なほど、愕然としていた。
「……あ……」
 半蔵のその一言と、その鳶色の目に浮かんだ色が急速に閑丸の感情を冷やした。
 ほんの一瞬だったが、驚きの色が確かにあった。
――おな、じ……
 何故かはわからない。わからないがそんな気がし、後悔と申し訳なさが胸一杯に広がる。
「あ……ご、ごめんなさい…ぼく、僕……」
「詫びることはない」
 立ち上がり、二つの墓を見下ろし、半蔵は言った。
――知っている。
 知らぬ者にとって知っている者がどういう風に見えるか、知っていることに対してどういう風に思うのか、わからぬ半蔵ではない。閑丸がどのような気持ちなのか、察している。
「お主の言うとおりだ」
 墓に目を向け、己の手を見る。どちらの墓も、この手で作るのを手伝った……
「儂は、知っている」
――それで、十分。
 墓に向かって心の内でそう呟くと、半蔵は閑丸の方に振り返った。
 どうしたらいいかわからない、そんな目をした閑丸がじっと半蔵を見つめている。
「は、半蔵さん……」
「だから、構わぬ」
 その目を受け止め、答える。
 大きな黒い目に己が映っているのを半蔵は見た。それ故か、今の答えは己に向けたもののような気がする。
「………はい」
 こっくりと、閑丸は頷いた。頷くしか、なかった。
 半蔵は、いいと言ってくれたのだから。
 だが、心は晴れない。
――僕は…
 何もないのだと、改めて知る。
 己が己であることを知る術を、知らない。
 その鍵になるかもしれない、唯一つのものは、『鬼』。
――でも。
 半蔵を見る。
 少し切れ長の鳶色の目は、閑丸を静かに見つめている。
「僕には、『鬼』しかないんです」
 半蔵は、何も言わない。
「『鬼』だけ、なんです」
 半蔵の目を、見つめる。
「……そうなのか」
「え?」
 半蔵の言葉に宿った響きが、閑丸にはわからなかった。
 閑丸の言葉に頷いたもののようであり、問いかけるようであり……
「半蔵さん……」
 だが半蔵はそれ以上何も言わず、その場を去る。
 閑丸はその後に続くしか、できなかった。


 店の表に戻ると、弥六の姿は既になかった。
 楓が一人、長椅子に座っている。
「ゆかれました」
 半蔵に気づくと立ち上がり、そう言う。
「そうか。
 次のことは、何か言われていたか」
「近江にて、と」
「わかった」
 荷を負い、笠を被る。
 楓も手早く、それに習った。
「お代は、先様より頂いております」
 見送りに出た店の女が、言った。
「……そうか。
 いつもすまぬ。できればこれからも、頼む」
「承知しております。」
 深々と女は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
 楓も頭を下げた。
「では」
 軽く笠の端を上げると、歩み行く。
 少し後から楓が続く。
 閑丸は、しばらく二人の背を見ていた。
 半蔵は進んでいく。黙々と進んでいく。
 振り返るそぶりなど、ない。
「どうなさいました」
 見送っていた店の女が、怪訝そうに問うた。
「あ、いいえ。なんでもないです。ごちそうさまでしたっ」
 ぺこりと頭を下げると、閑丸は駆け出した。
――僕には……これしかない………
 青い空の下、だがその澄んだ空に目を向けることなく、閑丸は前をゆく半蔵の背を追った。

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