山は、日の暮れるのが早い。 もっとも今日に限って言えば、時の早さを感じたのには他の理由があったかもしれない。 その薄い明かりの中、一人、半蔵は縁にいた。 楓は少し早い夕餉の片づけを手伝っており、閑丸はさらにその手伝いである。子供達もそれぞれに手伝いや就寝の準備をしていた。 することがないのは、半蔵ばかりである。 この村のこと、では。 日は既に西の山の端に消え、細い月が赤と青の入り混じったそこに凛と輝いている。外で遊んでいる子も、働いている子も、もういない。 だが、もう見えぬ日輪の残照が、完全な闇の到来をまだ阻んでいる。 ひやりとしてきた大気を感じつつ、半蔵は荷から手甲を取り出した。 まず一つをくるりと左腕に巻き、こはぜを止める。手の甲に当たる部分のひもに中指を通す。同じように、右にもつける。軽く手を握ったり開いたりすることで具合を確かめつつ、手首と肘の部分のひもを結わえる。 「……物騒な物、つけてるな」 「……………」 声に、僅かだけ半蔵は視線を向けた。 困ったようにも、憮然としているようにも……それでいて、なにやら楽しんでいるようにも見える顔で、三汰がそこにいた。その手には、鼓がある。 「仕込んであるんだろう?」 手甲に針や棒手裏剣を隠し持つのは、忍の習慣のようなものである。故に―それらは刀ではないこともあり―咎める気は三汰にはない。 ――だが、こういう準備をしてるってことは…… 「……うむ」 小さく頷いただけで視線を戻した半蔵に、一つ肩をすくめると、三汰はその隣に腰を下ろし、あぐらをかいた。 「なあ……」 そして「そのこと」を問おうとしたとき、「あること」に気づき、思わず三汰は小さく笑いを洩らした。 「……なんだ」 「いや……昼間と同じだな、と思ってな」 口の端に笑みを残したまま、三汰は答える。 「昼間はここに閑丸が一人いた。今はお前さんだ。そして声をかけるのは、俺……そう思ったら、なんだかおかしくてな。 次は、楓さんかね」 「……そうか」 半蔵はもう一度両の手を軽く握り、開いて、手甲の具合を確かめると、三汰に視線を戻した。 「皆は」 「夕餉のかたづけに床の準備。楓さんがいてくれるんで、俺はすることなし。お前さんと同じさ」 「そうか」 「今日はありがとうな。あいつらみんな、喜んでたよ」 「いや……」 ふ、と。 三汰は軽く目を瞬いた。 ――……笑った? 確かにそう……感じたのだ。 薄紙を重ねるように濃さを増す青みの向こうの、半蔵の顔を凝視する。 「……良い時、だった」 だがそう言った半蔵の顔は、いつもと変わらぬ物でしかなく。 「……そ、か」 三汰は、狐に摘まれたような気分で頷いた。 ひう、と涼やかな風が吹き、それが払うかのように、空からは赤みが静かに去っていく。 赤に変わって深く濃い青が東から空を満たし、その中で弓形の細い月の光は、鋭さを増す。全てが闇に沈み、その在るが様を見るのが難しくなっていく中、ただ一つはっきりした、もの。 ――言ったことに嘘はない。つまり… 「楽しかったって、ことだよな?」 三汰は、にかりとはっきり笑んで、言った。 「……なに?」 ――楽しかった? 問われた言葉の意を図りかね、半蔵は三汰を見る。 濃さを増す闇の向こうで、三汰が、じっ、と己を見つめているのが感じられる。 その向こうに、子供達の笑いさざめく声が、聞こえた気がした。 求められ、取り合いの駆け引き―口を挟まねば、決して終わらない駆け引き―の後に組を移って。繰り返されていた、「同じ」やりとり。 ――…… あの中にいたのは、楓を―『兄』であった者がもたらしたことに苦しむ妻を―一人で行かせてはならない、と思ったからだ。 詩織が―じっと半蔵を見ているのに、他の子らほど近づかない童女が―気にかかったためでもある。 ――だが…… 同時に他愛もない子供らの遊びの中にあることを、楽しんでいた己が、いた。 なんの実もないように見える掛け合いを楽しむ子供達を見ているのが、楽しかった。 ――おかしなものだ。 そんな己が、己のことながら、そう思える。 任の中にある忍でありながら、あのように感じていたことが。 そのことに、今まで気づかなかったことが。 だが、確かに、そうだった。 他愛もない、どこにでも在るようなことが、楽しかった。 「そう、だな」 だから半蔵は頷いた。 「そか」 三汰の笑みが、大きくなった。半蔵が楽しんだことが嬉しい、というように。 ――おかしな、ものだな。 その気配に半蔵は、そう、思った。 「なあ」 ふ、とその笑みが三汰の顔から消える。 「来るのか?」 問うた声が、ぴりと張りつめる。 「来る」 答えた半蔵の声は、いつもと変わらない。低いがよく通る声が、宵闇に飲まれていく大気を震わす。 「何故、わかる?」 三汰は鼓を自分の膝の上に乗せ、胴の締め具合を確かめ始めた。 「楓がいる」 「……詩織も、いるぜ」 「聞くが」 「ん?」 「今まで一度も破沙羅は現れていない、そう言っていたな」 「……ああ」 時折とんと指で叩いてみながら、三汰は鼓の音を律する。 「楓の前には、既に二度、現れている」 「……たまたま、だったんじゃないのか?」 「そうも言える。なれど、この件は違う」 「どうして、そう言える?」 「……はっきりとしたものがあるわけではない、が」 半蔵は言葉を切った。 一応の説明はできる。だが、人に納得させられる物かどうかはわからない。三汰の言う通り、ただの偶然である可能性の方が高い。 それでも、確信がある。 だから、言葉を続けた。 「来る」 「…………」 三汰は怪訝に、眉をひそめた。 「それだけ、か?」 「それだけだ」 「それだけ、か……」 「…………」 三汰の納得とも諦めともつかぬ呟きに戻ったのは、沈黙。 ととん、と三汰は鼓を指で打った。 トトン、と小気味よく鼓が答える。 「ふむ」 小さく頷き、三汰はひょいと無造作に鼓を構えた。 きちんとした構えではない。あぐらをかいた姿勢のまま、左肩の上に鼓を置いた、それだけである。それでいて、何か凛とした物が張ったように、半蔵は感じた。 かっ 高く硬く、されど深く広い音が、宵闇に響く。 「ふむ」 頷くと、三汰はまた無造作に、鼓を膝の上に戻した。それだけで、凛とした何かが消えてしまう。 「来る、なら、やるさ」 けどよ、と三汰は半蔵を見る。 「けど、よ。 一つ、気になっていることがある」 「……なんだ」 「『鬼』は、確かに尋常じゃない技と力を持っている、ことになっている。それでも奴は人間だろう? 神出鬼没に出たり消えたりたって、後から見れば人―そりゃ、並のにはおさまらんが―の動きさ。一夜で千里離れたところに行ったりはしてない」 「確かに」 頷きつつ、思う。 ――『鬼』も人間というか。……己らと同じと見るというのか。 それは三汰自身もまた、尋常ではない技と力を振るったものの末裔故に、そのようなことを思うのかもしれない。 ――……儂は? 伊賀忍、『煙の末』。 尋常ではない技、力。 ――どう…… 不意に浮かんだその問いは、三汰の言葉の続きに立ち消える。 「それなのに、何ではっきり化け物の破沙羅って奴は、『鬼』にまっすぐいかねぇんだろうなぁ。妹や娘に手を出すのもわからないではないが……お前さんの話を聞く限り、『鬼』の場所を知らないか、知ろうともしてないかのどっちかにしか思えない」 「うむ……」 三汰の言うことは、もっともである。 破沙羅は『鬼』を狙っているという。その既に朽ちたはずの躯を現世につなぎ止めているのは、『鬼』への深い憎しみのはず。楓や詩織を殺したところで、それが晴れるはずもない……狂っているとしか思えないあの様で、そこまで考えられるかどうか、という疑問もあるが…… ――……む。 「気配」を感じ、半蔵は体に力を、ほんの少し入れた。その気配を察し、三汰にも緊張が走る。 駆け寄る足音は、家の奥から。 「おじちゃん!」 声と同時に、小さな体が半蔵の背に飛びついた。 「……詩織、どうした? 手伝いは終わったのか?」 いささか気の抜けた様子で、三汰が言う。 「終わったもんっ」 姿ははっきり見えないが、答えた声は間違いなく詩織のものだった。 「だから、あのね……」 ぎゅう、と小さな手で、童女は半蔵にしがみつく。小さくとも、確かなぬくみと重みが伝わってくる。 「……って、………の」 おでこをこつんと半蔵の背に押しつけて言った言葉はよく聞き取れず。 半蔵は、聞き返そうと頭を巡らしかけ、 ――オシエテ 「……!」 慌てて視線を戻した。 「……おじちゃん?」 「いや……」 ――あの女は… 視界の中に、ぼう、と見えた女の姿。裸身に紗を羽織っただけの、今にも消えそうな、娘。 それは間違いなく、あの宿場町で半蔵の前に顕れた娘だった。 だが、今はもう、いない。いたという気配すら残っていない。 ――だが気のせいのはずは、ない。 片膝立ちの姿勢を、取る。 周りはすっかり暗くなってしまい、見通しは非常に悪い。いまや辛うじて西の空が薄い明かりを残しているだけだ。 「……おじちゃん……あのね……」 おびえた声を詩織が上げる。ぎう、と半蔵の肩をつかんで。 まさにその瞬間、蒼い闇が空を満たした。 |