視線をやれば、三汰の姿はない。 ――……いつも通りか。 「楓っ! 閑丸!」 家の奥に向かって叫ぶ。 「はい!」 「は、はい!」 跳ね返るように返事が戻り、こちらへ駆けてくる二つの足音が聞こえてくる。 ――……他の子供達はいない……か。 気配を探っても、他に気配は感ない。 「ここ」にいるのは半蔵と詩織、楓、閑丸、そして…… ――破沙羅。 片膝立ちの姿勢のまま動かず、半蔵は周囲の気配の流れに意識を集中する。 しんと大気は静かだ。聞こえるのは二つの足音だけ。それは宵闇の静けさではなく、「無い」静けさ。 ――ここには、破沙羅が欲するものしか、ない…… 『鬼』と血を同じくする者、『鬼』の血を引く者。 『鬼』と深い因縁を持つ者。 ――……? 違和感が半蔵の胸をよぎった。 「あなた」 抑えた声と共に、楓と閑丸が縁に出る。 じゃっ! 『鎖』が吠える。 殺気が、空を裂く。 それが向けられた先は。 ――何故だ? 理由はわからない。だが確信はより強固なものになる。 立ち上がりざまに半蔵は腕を振るい、思った通りの軌跡を描く「それ」に叩きつけた。 がん、と鈍い金属音が上がり、どっ、と重い物が床に落ちる。 この蒼い闇の中でも、冷たく刃が光って見える、三枚刃の回転刀。 「下がれ」 後ろに向かってそう言うと、殺しきれなかった衝撃が残る腕を軽く振り、半蔵は「そこ」を睨み据えた。 言葉に従い、楓が詩織を抱き上げ、障子の桟の向こうまで下がる。 「………………」 閑丸は動かない。見やれば、その大きな黒い目で、じつと半蔵を見ている。その手には傘があり、その背には、布にくるまれた刀がある。 ――空手のあなたが、戦うんですか? 見上げる目が、そう問うている。 「それが、約だ」 ――……え? 「下がれ」 目を大きく見開いた閑丸にもう一度言うと、半蔵は視線を戻した。 「来い」 「そこ」に向かって言う。 じゃらりと、鎖が鳴った。 ず。 ず。 ず。 「モウ、逃がサナい………ヨぉ……」 ゆっくり、ゆっくりと回転刀が闇に引き寄せられていく。 「ミツケタよぉ…『鬼』よォおォお…ん」 ず。 ず。 「返セるヨォ、すべテ、ゼンブ、何モカもぉ………」 ず。 「『鬼』ぃぃ…おレノ、篝火の、イタミ……キョウフ……」 ず。 「カナシミ」 ず。 ず……… 「コンどこそ、こんドこそぉォぉぉぉッ! 返シテ! 殺るよぉっ!」 じゃんっ! 回転刀が、闇に飛ぶ。 手が、にゅうと伸びる。 それが見えると同時に半蔵は、右拳で縁を打った。 「爆炎龍!」 蒼い闇を裂き、朱い龍が跳ねる。 龍はごうと唸りながら、回転刀を取ると同時に闇から滲み出るように姿を現した破沙羅に襲いかかる。 その顎が破沙羅をまさに捕らえんとした時。 「クククククク……」 引きずるような笑い声と共に、破沙羅の身が、散り崩れた。 散ったその身は無数の光る蝶と化し、ひらりと軽く焔から逃れ、闇に広がる。 「クク……おいデぇ…」 「…さぁ…サぁ……」 蝶の放つ妖しい光と戯れているかのように、破沙羅の声があちらこちらから響きわたる。 「……オれが……レノ……」 「篝火……オレと、篝火ィィぃ……」 すうと、女の姿が蒼い闇の中を通り過ぎた。朧な姿であったが、半蔵はしかとそれを見た。破沙羅が顕れるのと同じに顕れるあの娘だ。 ――カガリビ。 声が、聞こえた。 ――オシエテ……オワラセテ……ワタシタチハ、モウ……… 「フィぃぃぃ……ハハハハハハハハハ…!」 破沙羅は女にも、声にも気づいた様子はない。 ――……。 半蔵の左手の中には、手甲から引き出した棒手裏剣が一つ。 下にそれ構え、春の野を飛ぶように軽やかに舞う蝶を、いや、その中に確かに存在する「破沙羅」の気配をじっと、見据える。 「ひは…俺ハぁ……俺ぇぇぇ……はァ……オボエている、ヨぉぉぉぉぉぉぉ………」 さあぁぁぁっ…… 雨の降るような音を上げて蝶が群をなし、一つの塊となる。 しうと音が、引く。 蝶の放つ淡い光に吸い込まれたように、音が遠い。 光る蝶の塊は、その場から動かない。 ゆるうりと、狙いを一つに定めているかのように。 ざあぁぁぁっ……… 再び雨のような音を上げ、光る塊が「そこ」に飛んだ。 ごぉっと鳴ったのは、蝶の羽音か。 半蔵の左手に宿った焔があげた、唸りか。 ――ほのお…? 閑丸の中で何かが呼応するように、さざめいた。 ――あか…紅い……流れる…ゆれる…朱…… その色が、揺らめく様が、閑丸の目を捕らえて離さない。 一瞬身を沈めたかと思うと、低く、半蔵が跳ぶ。 蒼の中、焔が細く、尾を引くように流れる。 ひょうっ 焔を宿したその手刀の一閃の前に、なんの手応えもなく、蝶の塊が裂ける。裂ける端から蝶が焼け落ちる。焔は凄まじい勢いで蝶の羽から羽に燃え移り、その刹那、焔の朱が蒼い闇を貫いた。 ――あか。闇の中の、赤…… 鮮烈なその色の、対比。だが何かが足りない。何かが違う。 じん。 朱をさらに鋭いモノが弾く。 「『鬼』ガ、おレニ刻ンだすベテェェぇっ!」 ――やいばと、あか。 回転する、三枚刃。 ――知っている、僕は、知っている……! 「返ぇぇぇスぅぅゥゥぅぅッ!」 まだ宙にあった半蔵は、くると身を捻った。 「下がれっ!」 叫び、棒手裏剣を打つ。 ――僕が? 「楓!」 どんっ 狙い過たずそれは連なった輪の一つを貫いて、縁に縫い止める。 びぃんと鎖が一杯に、張った。 楓の、目の前で。 くる。 くる。 くる。 ど。 刃が落ちた。 ――僕は…… 「………」 楓は、着地した半蔵を見た。 ――私なのですね? 黒い目が問う。 ――おそらく。 鳶色の目が答える。 闇が鎖を引く。突き立った棒手裏剣が抜け、からと鳴った。 「閑丸さん」 ――知らない…… ずるりと闇に引き込まれていく回転刀に目を移し、楓は低い声で言う。 「…………」 閑丸からの応えはない。焔を手に宿したままの半蔵を、じっと凝視している。 「閑丸さんっ」 「……えっ?」 再び闇から手が伸びて回転刀を取った。 「詩織ちゃんを」 抱いていた童女を下ろし、我に返った閑丸の方に押しやる。 「やっ」 「詩織っ」 「やぁ……」 楓を見上げる詩織の目に、みるみる涙があふれる。 「閑丸さんっ」 それを敢えて無視し、楓は閑丸の方に強く押しやると、二人から離れる。 シュィィィィィィィィィィィィッ! 待っていたかの様に、刃が闇を疾った。 真っ直ぐに楓に向かって。 「おばちゃんっ!」 「駄目だよ!」 とっさに閑丸は詩織の肩を掴んだ。 再び、手裏剣が飛ぶ。 今度は縫いつけるまではいかなかったが、ぎりぎりのところで軌道は逸れ、楓の頬をかすめただけにとどまった。 「……ナぁゼぇダぁぁぁぁぁァ?」 ずるりと闇から現れ、空を切って飛ぶ回転刀を取った破沙羅が、半蔵を見る。 「ナゼぇ……じャまヲ……する?」 何か抜けたような顔で、ぽつりと、問う。 その顔は今までになく、穏やかな顔に見えた。 「…何故と、問うか」 胸の前に、焔を宿した左手を構える。 「…オマエは、…チガウ。オナジ」 焔を通して破沙羅を見る。その向こうに、娘の姿が在るのが見えた。悲しみと望みを乗せた目で、半蔵を見ている。 ――儂に何を……望む。 娘は答えない。ただじっと半蔵を見つめている。 ――……求むるな…… 「儂は、何も、返せぬ」 ぽつりと、言葉が出た。 「ヒは……っ?」 「何も返さぬ……っ」 言葉が、詰まった。こみ上げた何かを、半蔵は辛うじて抑え込む。 『決めてるのね』 詩織の声が、耳にこだまする。 「…我が前に在るものを」 ご、と焔が勢いを増す。 「滅するのみ」 「ひ……ハ………」 破沙羅の顔が、狂気と憎悪に歪んだ。 だがそれは今までと違う。 「ジャマをする…キサマハ…キサマハァァァァァッ!」 目の前に在る者、半蔵に向けられた、憎悪。 飛んだ刃は、半蔵を襲った。 「……いたい……」 詩織の肩を掴む閑丸の手が、強くなっていた。何か奪われたような、そんな悔しさがこみ上げてくる。 「……あの人は、なんだ……?」 破沙羅と対峙する半蔵の手の焔から、目が離れない。 回転刀を半蔵が躱わす。焔を宿したままの手が、伸びた鎖をからめ取る。 ぐんっ、と回転刀が天へ走り……孤を描いて、再び半蔵に襲いかかる。 「いたいよぉ……」 「……あ……ごめん……」 力を抜きつつも、それでも閑丸の目は、揺らめきながらもそこにある焔を見つめ続けている。 ――僕は……なんだ……? 僕は、ナンノタメニ…… 体が、震え出す。 ――ナクナッテシマウ……無くなってしまう……… なにが、なぜ、そんなことはわからない。わからないが、「なくなってしまう」ことに閑丸は怯えた。 「あ……ああ……」 「おにい……ちゃん?」 「ダイジョウブ……だいじょうぶ……だよ……」 必死で震えを押さえながら、閑丸は霧雨を強く、握りしめる。 「まもらな、きゃ……」 半蔵は鎖を引いた。 回転刀の軌跡が歪み、勢いが狂う。 次の瞬間、回転刀は半蔵の手の中にあった。 受け止めた手を、つぅと赤い血が流れ落ちていく。 ――いやだぁ………っ! 閑丸は、走った。 |