手毬歌 九


『音の祓い』
 琵琶の音の流れに乗り、鼓と鐘が呼び合い、共鳴し、この「長串村」という小さな空間一杯に広がっていく。
 長く響かせた鼓に鐘がしうるりと絡み、琵琶が短く添う。
 それら一音一音と共に、宵の闇に「在る静けさ」が満ちていく。
 微かに残っていた破沙羅の気を内に溶け込ませ、音は流れる。
 それは「滅」ではない。「在る」ものを在るがままに、それでいて一つの中に和合する。
――異ならざるもの、何を怖れるか。
――異ならざるもの、何を拒もうか。
 低い謡がそを示す。
「応っ」
 かんっ

『音の祓い』

――何が異なるものなりや。
――何が異なるものなりや。

――ナリヤ

「えい」

 じょう

――音なるものの前、変わるものなし。
――音なるものの後、変わるものなし。

――変ワルモノナシ

「えー」

 ちぢん

――イッソ異ナルモノナレバ
――タダ狂イテ舞エタモノ

「や」

 かかんっ

――ナレド変ワラヌモノ故ニ
――ナレド変ワレヌモノ故ニ

「はっ」

 じょう

――救ワレヌ

「おう」

 たんっ

――救ワレン

『音の祓い』

「やーあっ」

 ぢん

 ずん、とすべてが震えた。
 器より生じる音と、人よりいづる音の唱和に。

 ふうっと、西の空に残っていた、最後の朱の欠片が、消えた。
「……仕舞いに、さうらう」
 重く長く、節を回して言うと、三汰は鼓を肩から下ろした。
 宵の静寂が、空を満たす。
 ぢい、ぢい……と夏の虫達の声がその中を、舞う。
「よう」
 何事もなかったかのように、にかと笑う。
 「姿を顕した」半蔵達に。
 

 とん、とん、と膝の上に置いた鼓を、三汰は軽く打つ。
 障子の向こうから聞こえてくる、夏虫の声に合わせているようである。
 心地良い、とその音を聞きながら、閑丸は思う。
 決まった調子があるわけではない。何か節があるわけでもない。適当に打っているだけにも思えるその音に、何故か安堵を感じる。ほっと、力が抜けるような気が、する……
「世話をかけた」
 楓に左肩の傷の手当をしてもらいながら、半蔵は小さく頭を下げる。
「……いいや」
 灯明の隣で三汰は鼓を打ちながら、首を振る。
「俺達は、何もしていない。ただ器に任せただけだ」
「そうか」
「ああ。『破沙羅』を終わらせたのはお前さんだよ」
「それは、わからぬ」
 確かにあれはあれで、一つの終わりとなったのだろう。破沙羅はその想う者と共に、闇に消えた。もう楓の前に顕れることはあるまい。だがその結果を導いたのが己だったとは思えない。
――儂が為したことは、あれを滅したこと、のみ。
 終わらせたのは、己ではない。
「そうかい」
 視線を落とした半蔵に、肯定とも否定ともつかぬ言葉を三汰は返した。
「……終わりました」
 包帯を巻き終わったところで、楓が言う。
「うむ」
 新しい着物の袖に手を通す。傷に痛みが走ったが、もうそれほどでもない。数日もすればほぼ治るだろう。
 穴の開いた着物は既に脱ぎ、脇に置かれてあった。後で楓が洗って繕うだろう。 
「さて……」
 ととん、と鼓を打って手を止めると、三汰はちらと背の障子を振り返る。
「俺はもう休む。閑丸も疲れているようだし」
 閑丸はいつの間にか、宝刀を抱えたまま、寝息を上げていた。
「まあ……」
「楓さん、手伝っていただけますか?」
 鼓を楓に差し出す。
「はい、わかりました」
 鼓を受け取り、着物と残った薬や包帯も一緒に持って楓は立った。立ち上がりながら、夫を見る。
「………」
 心配ないというように、半蔵は頷いた。
 こくりと頷きを返すと、楓は閑丸を抱き上げた三汰と共に、部屋を出た。


 三人がいなくなると、障子が僅かに開いた。そこから小さな目が覗く。
 小さな目はしばらくきょろきょろと辺りを見回して何か―おそらくは三汰がいないこと―を確認していたが、いないことを知ると大きく障子を開けた。
 にこ、と笑うと、とことこと半蔵に近寄る。
「いたい?」
 半蔵の左肩を見、首を傾げる。
「ああ」
 小さく半蔵は頷く。
「……いたい?」
 きゅう、と詩織は眉を寄せた。
「傷は、自然と治るのが一番良い。だから心配はいらん」
「でも、いたいのね」
 よいしょ、と詩織はあぐらをかいた半蔵の膝の上によじ登ると、そおっと左の肩に触れた。
 何をするのかと思いながら、半蔵は詩織のするに任せている。
「いたいの、いたいの、とーんでけ」
 そおっと、そおっと半蔵の肩を撫でながら、二度三度、その言葉を繰り返す。
「これで、だいじょうぶっ」
「……………………」
 自然に、それでもほんの少しだけ、半蔵の表情がゆるんでいた。
 童女の行為のせいでもある、顔一杯に浮かんだその笑みのせいでもある。だが、それらのせいだけではない。
 それらが呼んだ、一つの想い。限られた者にだけ、半蔵が向けてきた想いのせいだ。
 詩織はもう一つにっこりと微笑むと、その膝の上にちょこんと座る。
「どうした」
「あのね、おねがいがあるの。あのおばけやっつけたおじちゃんだから、おっきなおじちゃんだから、おねがいがあるの」
 ほんの少し、顔を伏せて、言う。
「……?」
「あのね、おっきなひとはねひとりなの。だからね、いっぱい、わからないの」
 怪訝の色を浮かべた半蔵にはお構いなしに、詩織は言った。たどたどしい口調で、それでも一所懸命な想いをいっぱいにして。
「あのね、おじちゃんもおっきいけどね、おっきなひとはもっとおっきいの。とおいの。たかいたかいところに、おかおがあるの。だからね、しおいはみえないの。しおいはちっちゃいから、おっきなひとにはみえないの」
 こてん、と半蔵の体にもたれかかる。小さな、だが確かな重みがぬくみと共に伝わってくる。
「しおいは、ちゃんと、いるのに……」
 半蔵は、詩織の頭の上にそっと―先ほど詩織が半蔵の肩に触れたように―右手を置いた。しようと思ってしたことではない。顔を伏せた童女の姿に、自然と手が動いていた。
 詩織はびっくりした様子で顔を上げ、半蔵を見上げた。だがすぐに嬉しそうに笑い、自分の手を重ねる。
「おじちゃん」
「なんだ」
「おじちゃんは、しおいよりおっきいから、おっきなひとにみえるかもしれないの。
 そしたら、おっきなひと、わかるの。きっと、わかるの」
「……何がわかる?」

「いること」

「……いる、こと」
「そう。いることよ。ちゃんと、いること。おっきなひとはひとりじゃないの」
 拍子を取るように、こくん、こくんと体を揺らしながら、詩織は言う。その両手は、しっかりと自分の頭の上の半蔵の手を押さえている。
「ひとりはさみしいの。しおいにはさんたにーちゃんがいて、みっちゃんにきちちゃんにえっちゃんにじろちゃんにしのおねーちゃんにいっぱいるからさみしくないの」
 でも、ね。と、ゆっくりと半蔵の手から自分の手を、離す。
「わかんないの。だからね」
「儂でなければ、ならぬのか」
 詩織の頭に手を、ただ、置いたまま、半蔵は言った。
――儂に何が出来ようか。
 そう、思うから。滅することしか出来ぬ、一人の忍に幼子の想いに応えられるはずもないと。
「あのね、おじちゃんは、ちがうの。
 おんなじだけど、ちがう。ちがうけど、おんなじ。
 おっきなひととおんなじひと、いっぱいいるの。ちがうひとも、いっぱいいるの。
 おじちゃんは、どっちでもないの。おんなじだけど、ちがって、ちがうけど、おんなじなの」
「どういうことだ?」
 詩織はもう一度半蔵の膝の上に立ち、振り返った。
「あのね、だってね、こわいの」
「……怖い?」
「おじちゃんも、おっきなひとも、こわいの」
 こつん、と半蔵の額に、自分の額を合わせる。
 じっと、半蔵の目を、大きな黒い目が見る。
「まっくらで、あかくて、つめたくて、ぎらんとしてて、あつくて、いたくて。とっても、こわいの」
――この目、は
 無邪気な、鏡のように全てを映すその目の深さに、半蔵は今初めて気づいた。この目は、映すもの、映さぬものを選ばない目だ。容赦なく、すべてのものを見る目が、半蔵を映し出す。
 それは、灯明の明かりのせいだろうか、ゆらゆらと、揺れていた。
「でも、おじちゃんはここにいる。おっきなひとは、ここにいないの。だからおんなじで、ちがうの。ちがうけど、おんなじなの」
 半蔵の鳶色の目だけを、幼子は見ている。
 詩織の目に映る者は自然、半蔵の目にも映る。それはまた、詩織の目に。
――……むげん……
 感じた軽い眩暈に、眉を寄せる。
「おじちゃんはね、あったかいの……おっきなひとは……わからないの……しおいはちゃんと、いるのに」
 ふる、と黒い目が潤む。
 そこからするりと半蔵の姿が、消える。
「……え?」
 幼子は、自分の体を包んだぬくもりに、驚きの表情を浮かべた。
 大きな、それは詩織から見れば大きな腕。
 我が子を抱くのと同じに、半蔵は詩織を抱きしめていた。
「すまぬ」
 詩織は父親を求めているのだろうか。記憶にないはずの大きな男を、父として求めているのだろうか。血の海を進むことしかできなかった、あの男を。
 その想いに、半蔵に望むのか。
 滅することしか出来ぬ、この忍に。
 父である男を殺す、この忍に。
「おじちゃん……」
 ぎゅっと詩織は半蔵の肩を掴んだ。
「……すまぬ」
 詩織の想いにどう応えればいいかわからぬ己に歯がゆさを感じながらも、それでも半蔵はそう繰り返すことしかできない。掴まれた肩の痛みにも気づかぬほどに。
「おじちゃん」
「……ん」
「きめてるの」
「……何を」
「しあない」
「……そうか」
 半蔵は呟くと、そっと詩織の背を撫でた。
 その表情は先よりも少しだけ、やわらかなものになっていた。

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