所詮 弌


 近江、長浜に居合いの流派として名高い、「神夢想一刀流」の道場があった。
 数十人の門弟を抱えるこの道場に、稽古の声が絶える日はなかったという。
 だが今は人の気配なく、押し殺したような静寂を破るものはない。
「『鬼』に」
 道場の者は皆、殺されたのだと、町の者は言っていた。
 卯の刻―早朝の稽古が終わったところを、襲われたらしい。
 師範以下、門弟は全滅。いずれもただ一刀の下に切り捨てられたという。しかも、神速名高い神夢想一刀流の剣士達が、刀を抜くどころか鯉口を切ることもできずに、斃されていたという。
 道場を襲った『鬼』は、日の出前の闇に紛れ、姿を消した。それを見たのは、道場の下働きの老人ただ一人。それもただ、闇に消えゆく後ろ姿を見たのみと、いう。
 今でも一人、道場に残っているその老人の元を、半蔵たちは訪れていた。
 来ていると思われる弥六からの連絡がなにもないことと、わずかでも『鬼』を見たという者の話に興味があったからである。
「この世のモノとは、思えませなんだ……」
 老人は、ぽつりとそう言った。
 血の臭い生々しい中を去っていく「それ」は、圧倒的な存在感を放ちながらも、「この世のモノではない」そんな奇妙な感覚を受けた、と。
「まるで、幽霊のようでございましたよ……」
 困惑の表情が、老人の顔に浮かんでいる。
「幽霊が、人を斬った……?」
「いえいえ」
 驚いた様子で瞬きした閑丸に、老人はゆっくりと首を振った。
「足は確かにございましたし、足音も聞こえました。幽霊ではございませぬ。
 しかし……」
 沈みゆく月の光に照らし出された、赤と黒の衣を纏った巨大な、男。その手には抜き身の清冽な霜刃。あれだけの人間を斬ったというのに、そこには刃こぼれ一つ、血の痕一つない。
「まさに、『鬼』、と思ったモノでございます」
 そう言って目を伏せた老人の言葉に、半蔵は奇妙な印象を受けた。それはまるで、尊いものを見たかのようであった。
「御老」
「はい?」
「『鬼』が憎くはあられぬか」
 老人の言葉の中には、不思議と怒りも悲しみも憎しみもなかったのだ。それまで仕えてきた主人たちを殺されたというのに。
「……まさか、そのようなことがあるはずが。『鬼』は憎い仇にございます。私に心得があれば、師範代のように仇討ちに出るところでございます」
「師範代? 生き残った方がいらっしゃったのですか?」
 楓が問うと、老人はまた首を振った。
「いえ。ずっと旅に出ておられた方にございます。
 たまたまあのことがあった直後にお戻りになられました。
 ……初めてでございました。普段は穏やかなあのお方が、あれだけ激しい怒りをお見せになったのは」
 ほう、と老人は息をついた。
「先生方の通夜を済ませてすぐに、師範代は出立されました。
 ……私もお供したかったのですが。後のことを任されたことと、剣の心得も旅に出たこともない私では、足手まといでしたので……」
「それにしては、御老からは怒りは感じぬが」
「……半蔵さん……!」
 淡々と問いを重ねる半蔵に、思わず閑丸は声を上げるが、半蔵は表情一つ変えず、老人を見ている。
「……そうで……ございますね……。
 しかし確かに怒りも憎しみもございます。『鬼』への恐怖もございます。しかし……アレは、不思議なものにございます。
 後ろ姿のみでございましたが、私が見た『鬼』は……」
 そのときのことを思い出そうとしているのか、老人は軽く目を閉じて言葉を切った。
「美しゅうございました。高みにあるものだけが持つ、美しさを持っておりました」
「………………」
「しかし、哀れとも感じました」
「哀れ?」
「はい。
 あなた様が私に怒りなどを感じないのは、そのせいやもしれませぬ。そういう意味では、師範代ほどに怒りを持っていられないのかもしれませぬ」
――哀れ、か。
 弥六もそう言っていた。訳は言わなかったが。
 同じ事を言ったからではないが、この老人は弥六と似たものがあると、半蔵は思った。人の真をするりと見抜き、それをすっぽりと受け入れるような…そんな人物のような気がする……
「何故だ」
 だからだろうか。あの時には問わずにいたことを口にしていた。
「は?」
「何故哀れと思われる」
「はぁ……そうでございますね……何故かはわかりませぬ。一人闇をゆく姿を見たからかもしれませぬし、先生方を殺したものを畏れる気持ちをそう思いこんでいるだけやもしれませぬ」
「そうか……」
「はぁ」
「そうか。
 ……不躾なことを問うて、申し訳ない」
「いえ、構いませぬよ」
 老人は半蔵の目を見つめ、ふ、と微笑んだ。
「すまぬがもう一つ頼みたい」
「何でございましょう?」
「道場を見せてくれぬか」
「あの時の跡はほとんど残っておりませぬが」
「それでもよい」
「わかりました。ご案内いたしましょう」
 そう言って、老人は立った。


 道場の入り口に近づくにつれ、なにやら声が聞こえてくるのに、半蔵達は気づいた。
 低い独特な節を持った言葉である。
「お経……ですね。般若経のようですが……」
「お坊さんを呼ばれたのですか?」
「いえ、葬儀も済みましたのでお坊様が来られることはないはずでございますが……」
 首を傾げて老人は道場の戸に手をかける。
 楓はそっと半蔵を見上げた。
 半蔵は小さく首を振る。
――中にいるのは一人……殺気の類は、無い……
 それでも僅かに左足を、引く。
 がらりと老人が道場の戸を開いた。
 その向こうに見えたのは、巨大な背中。巨漢が一人、道場の真ん中に座って一心に経を唱えている。座っていても、閑丸よりも大きい様に見えるその男は、僧衣を着ているところから見ると、坊主であるようである。総髪の頭に黄色い鉢巻きを巻き、筋骨逞しいその外見からは、あまりそうは見えないのだが……
「波羅掲諦。波羅僧掲諦」
 戸が開いても、重々しい声で男は経を唱え続けている。
「どうしましょう……?」
「しばらく待て」
 閑丸の言葉に、短く応える。
 経はもう終わる。とりあえず害意のある物には見えない。終わるのを待っても問題はあるまい。
「菩提薩婆訶。
 般若心経」
 息長く、尾を引いて、男は経を唱え終えた。
 しかしその後も余韻を保つように、じっと動かない。
「……お坊様?」
 老人がおそるおそる声をかける。
「ん……? おお」
 今初めて自分の後ろの者に気づいたという風に、男は振り向いた。

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