山を飾っていたやわらかい白が、この出羽の地からもようやく消え、若い緑が山を満たした。
 日差しは春の緩やかさと、夏の鋭さの双方を宿し、心地よい陽気が続いている。
 新しい緑に包まれた山中の一軒家、元は甲賀のくノ一である綾女の家の裏庭で、一人の娘が洗濯物を干している。
「……ふう」
 全て干し終え、娘―楓は一つ息をつく。ここでの生活にも、ずいぶん慣れた。綾女は物言いにきついところもあるが、楓には色々とよくしてくれている。不満、というより物足りなさがあるとすれば――

「精が、出るな」

 背にかけられたのは、突然の声。
 だがそれは楓が待っていた声でもあった。
「はい」
 だから、驚きよりも嬉しさが先に立ち、楓はにっこりと微笑んで振り向く。
「おかえりなさい」
 そう言うと、その人――服部半蔵は何とも複雑な顔をした。
 表情の薄いその人には珍しく、様々な感情が一時に表に表れている。


「おかえりなさい」
 振り返った楓は、そう言ってにっこりと半蔵に微笑みかけた。
――……おかえり、なさい………?
 聞き慣れない言葉に、戸惑う。最後にそう声をかけられたのは、いつのことだっただろうか。
 里に戻ったとき、掛けられる言葉は里長からの「ご苦労」の一言が多い。たまに「よく戻った」と言われることもあるが、「おかえりなさい」などと、しかもこんな風に微笑まれて、など一度もなかった。
 だが、悪くはない。楓にこう言ってもらえるのは何とも……

――うれしい。

 ひょっこりと浮かんだその言葉にまた、半蔵は戸惑う。
――……うれしい、のか。
 目の前の娘は微笑んだまま、軽く首を傾げている。
 それは何かを待っているように、見えた。
「あー……」
 その表情に口を開けるも、言葉が続かない。


 二の句が継げないでいる目の前の人を、楓は愛おしいと思った。
 だからもう一度、言った。
「おかえりなさいませ」
 と。


「ああ…今、戻った……」


――戻った……?
 己の口をついた言葉に、半蔵は首を捻る。
 『戻った』
 ここは綾女の家であり、己の家ではない。戻る地は、この下の出羽の里、だ。
 だが、今ほど強く「戻った」と実感したことがあっただろうか?
 答えは考えるまでもなく、出る。
――ない。
 任に行き、そして帰る。また任を受け、帰る。先まで里は半蔵にとって、次の任を受けるまでの間、いるだけの場所に過ぎなかった。
 だが今、半蔵は戻ってきたと、思った。
 それが、戻りたい場所を見つけたからだとは、まだこの年若い忍には思い至れない。目の前にあるのに見つけられない答えに戸惑うばかりである。
「どうなさいました?」
 押し黙って考え込む半蔵に、楓がきょとんと小首を傾げる。
「あ、いや……」
 我に返って慌てて半蔵は首を振り、それでようやく用件を思い出した。
 懐から手拭いにくるんでいた櫛を取り出す。
「これを」
 手拭いから出したそれを、楓に突き出す。
 突き出されたそれを、楓は目をぱちくりとさせて見つめた。
 草色に塗られた、竹の櫛である。波打った刃の間が少し広い、変わった造りをしている。
「これを、私に?」
 櫛から半蔵に目を向けて、問う。
「ああ」
 櫛を突き出したまま、半蔵は頷いた。
 楓は櫛を見、また半蔵を見る。
 その頬が、微かに紅く染まっているように見えるのは、気のせいだろうか。
――どんな顔でこれを買われたのかしら。
 想像しようとしたが、楓にはできなかった。
 何とはなしに、想像してはいけないような気もした。
――今のお顔で、十分……
「ありがとうございます」
 にっこりと微笑んで、楓は櫛を受け取った。
 楓は今まで髪に差していた櫛――長く使い込んだものらしく、よく見るとかなり傷んでいる――を抜くと、そこに半蔵からもらった櫛を差した。
 そこに収まるべきものであったかのように、櫛は楓によく似合った。草色が、楓の茶の髪によく映える。
「いかがでしょう?」
 髪に差した櫛が半蔵によく見えるように、小首を傾げてみせる。
「……うむ」
 楓を見つめたまま、半蔵は、頷いた。
「似合っている」
 幾分素っ気なく、低く呟く。ただじっと、楓を見つめたまま。
「ありがとうございます」
 半蔵の視線に、恥じらいと困惑から頬を染め、楓はまた礼の言葉を口にした。
「髪をすくのにも、具合が良さそうです」
 櫛に軽く触れ、言葉を続ける。半蔵は何も言わない。やはり楓を見つめるのみだ。
 あまりにも長く見つめられ、楓の頬は熱を帯びるほどに赤く染まった。
「あの……」
 気恥ずかしさに、口を開きかけて楓は気づいた。
 半蔵の頬が、ほんのりと紅潮していることに。
 自分を見つめる鳶色の目が、どこか心あらずといった風なことに。
 自然と楓の足は、動いた。
 半蔵に歩み寄る。
 半蔵は動かない。楓を見つめるその目に微かに揺れるのは、戸惑いと、期待。
 互いの呼吸の音までも聞こえそうなほど間近に歩み寄ったところで、楓の足が止まる。
「楓……」
 半蔵は腕を、差し伸ばした。

「楓、洗濯は終わったのか?」

「は、はい!」
 楓は慌てて振り返って綾女に答えた。
 その時には既に半蔵は楓から十歩は離れている。
 庵から姿を現した綾女は、気味が悪いほどにこにこしながら若い二人を、見やった。

            終幕

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