十五か十六と思われる年で、『服部半蔵』の名を少年は受け継いだ。
 徳川家康に仕え、「鬼半蔵」と呼ばれた半蔵正成から数えること九人目の『服部半蔵』である。
 それから五年、少年は青年となり、まずまず無事に『服部半蔵』として在り続けている。三年前には妻を娶り(めとり)、その翌年に男子をもうけ、その翌々年、つまりは今年にもう一子、これまた男子をもうけた。

 その年のある日、北国の短い夏の終わりを告げる冷たい風が吹いた日、男が一人、出羽の里を訪れた。
 年の頃は四十に足を踏み入れた辺りか。初老と言っていい年である。小柄な体つきで、左腕が無く、風が舞うたびに空の袖がひるりとはためく。
 男の名は『弥六』。先代、八代目の『服部半蔵』である。この出羽の里を訪れるのは二年ぶりだ。
 六年ほど前にある任で左腕を失い、それを理由としてまだ三十代であったにも関わらず『服部半蔵』の名を次に譲り、今は浮き草として諸国を放浪している。
 若くして半蔵の名を譲った弥六のことを知る者はまだまだ多く、すれ違う里の者は皆、尊敬と僅かな畏怖を込めて挨拶をしている。弥六はそのたびに、にこにこと微笑んで挨拶を返しながら、一軒の家の門をくぐった。
 半刻ほどしてその家を出ると、次の家に弥六は向かった。
 
「半蔵殿、いらっしゃるさね?」
 戸を叩き、中に声をかけると、少し遅れて返事が返った。
「はっ、おりまする。弥六殿……ですね?」
 返る声は微妙な響きであった。大きく応えようとしながらも、声を抑えようとしている気が感じられる。
「うむ、久しぶりに、来たさね」
「申し訳ありませんが、戸は開いておりますのでどうぞ、お入りください」
「……?
 承知したさ、お邪魔するさね」
 普段なら、半蔵自ら戸を開けて迎えてくれる。半蔵が何かで手を離せなくても、妻の楓が戸を開けてくれる。なにも戸を開けて欲しいわけではないのだが、いつもと違う様子に、首を捻りながら弥六は戸を開けた。
「……なるほどさ」
 家の中に入って、弥六は半蔵が動かなかった理由を知った。
 囲炉裏の脇に座っている半蔵は、その腕に赤子を抱いていた。背には、幼子がぴた、とくっついている。
「その子が、二人目さね」
「は」
 小さく半蔵は頷いた。心なしか、その顔は赤面しているようであった。
「楓が綾女殿に呼ばれましたので、今日は、儂が」
「綾女殿も相変わらずさねぇ。
 いつできた子さ?」
 弥六は桶に水瓶から水を移し、草鞋を脱いで足を洗った。
 勝手知ったる『服部半蔵』の家である。何処に何があるくらいは覚えている。何しろ昔は、弥六がこの家の主だったのだ。
「申し訳ありませぬ……その……」
「なに、家の主殿、それも半蔵様に手間はかけられぬさ」
「は……申し訳ありません……」
「いやいや。それで、いつできた子さ?」
「この、夏に」
「ということはもう二月さね。今度(こたび)はどうであったさ?」
「生まれた日にはおりました」
 答えながら、半蔵はその日のことを思い出していた。
 男の身で産屋に入ることはできず、真蔵の世話をしながらただ待っていた。それでも聞こえてきた、声。
 我知らず、眉を寄せる。
「どうしたさ?」
 弥六は家に上がり、半蔵の前に腰を下ろす。
「いえ」
 元の通りの、感情の薄い表情に戻して半蔵は首を振った。
 ク、ク、と弥六は喉を鳴らした。
 子も妻も持たぬ弥六に、半蔵が眉をひそめた理由はわからない。しかし、眉をひそめた半蔵の難しげな顔に、『服部半蔵』とは思えぬ幼さが見え、それがおかしかったのだ。
 なぜ弥六が笑うのか、想像もできずに半蔵は、怪訝に―今度は意識的に―眉を寄せたが、弥六はいっそう声を上げて笑うだけである。
「…………」
「なんでもないさね」
 困惑の体を見せる半蔵に、弥六はようやく笑いを収め、首を振って見せる。
「名は、もうつけたさ?」
「……は。
 勘蔵、と」
「真蔵に」
 弥六は半蔵の背によじ登ろうとしている幼子に目をやる。
「勘蔵さね」
 半蔵の腕の赤子に視線を移す。
 そのたびに生真面目にいちいち、
「は」
と、半蔵は頷いている。
「己で考えた名さ?」
「は」
 半蔵は頷きながら、背中にしがみついてくる我が子をふりほどこうと、軽く身を揺すった。
「儂が、いま、我が子にやることができるのは、それのみ、ですので」
 頷く半蔵の表情……というよりはその心に、ふ、と僅かに陰が落ちたのが弥六には見えた。
 いつ命を落とすか、わからぬのが忍である。
 伊甲の忍達は「死ね」と命じられることなどまず無く、任を果たすことと同等に「生きて戻る」ことを肝要としているが、それでも、忍が任にあっては命に関わる危機に身をさらすことは少なくはない。それは『服部半蔵』とて変わらない。
 むしろ、『伊賀の刀』である『服部半蔵』の方が、他の忍達よりも厳しい任を受けることが多いのだ。その力があるからこそではあるが、それ故に他の忍達よりも死を身近に覚えることが多いのもまた、『服部半蔵』であることを、かつてその名を名乗っていた弥六は、誰よりも知っている。
 だからこそ、半蔵の心に落ちた影を、弥六は見つけることができたのだ。たとえ、その影がどれほどのものか、家族を持たぬ身故に思うことができずとも。
「ふむ……」
「は」
「ん?」
「は」
 頷く半蔵に、は、は、とまた、弥六は笑った。落ちる影を、払うように。
「は?」
 半蔵は首を捻ったが、弥六はやはり、ただ笑うだけである。
 幼子の時に拾われた恩義を感じているのか、このまだ若い半蔵は弥六の前では、始終こうである。
 秘めた力を認め、幼子を拾いはしたものの、『服部半蔵』であった弥六は「親代わり」とも、あるいは「師」と言えるほども構ってはこなかった。それなのに、この半蔵は弥六を実際の育ての親であり、忍の技の師である者よりも敬慕している。
「不思議なものさねぇ……」
 己もまた、目の前の若者のことを、拾っただけの者、または『服部半蔵』の名を受け継いだだけの者とは思えなくなっていることに、弥六は言葉を洩らしていた。
 そして、己に家族がないわけではないのだと、目を細くした。
「はぁ……?」
 半蔵の首に腕を回し、しがみついてくる真蔵をたしなめていた半蔵は、きょとん、と弥六を見た。
 幼子は父の言を聞かず、どころか面白がってますます強くその背にじゃれるようにしがみついている。
「やめぬか、真蔵」
 腕に勘蔵を抱いているので、半蔵はそう繰り返すことしかできない。また、同じ理由で語調もそれほど厳しくも大きくもできずにいるのが弥六にはわかる。
「半蔵」
「はい」
 半蔵は勘蔵を抱いたまま上半身を捻り、何とか真蔵から逃れようとしている。その父の動きが真蔵にはおもしろくて仕方がないのがわからないらしい。
「何故寝籠に勘蔵をおかぬさ?」
 にこにこと笑い、弥六は問うてやる。寝籠に勘蔵を寝かせればもっと楽に真蔵をあしらえようし、そもそもあしらう必要がなくなるだろう。
――外の者には見せられぬ様さねぇ。
 『非情なまでに冷静で、焔を繰る(くる)怖ろしき影』というのがこの半蔵の風評である。『歴代半蔵の内もっとも優れたる者』とまでも言われている。
 今のこの姿は、それらの言からはかけ離れたものでしかない。
「…………」
 言われて一瞬、半蔵の動きが止まる。
 その目が、己のすぐ側に置いてある寝籠に向いた。完全にその存在を忘れていたようである。
「………………」
「やー!」
 父が動きを止めた隙を逃さず、真蔵は父親に飛びついた。
「……ぐっ」
 衝撃に、半蔵が声を洩らしたのを弥六は聞いた。それでも赤子には衝撃が伝わらぬようにしているのはたいしたものである。
「…………いや、このままで構いませぬ」
 背にしがみついた我が子に視線をやって、半蔵は言った。
 そこには、いくらか困りながらも、子を想い、この一時を楽しんでいる色が確かにあった。
「まったく、外の者には見せられぬ様さ」
 今度は口に出して、弥六は言った。
「は……?
 ……確かに」
 背の我が子と、腕の中の我が子を交互に見、半蔵は苦笑する。 
「だがそれでは話ができんさ。勘蔵をこの爺に抱かせてもらえぬさ?」
 隻腕を伸ばし、弥六は微笑んだ。
「まだそんなお年ではありますまいに」
 慎重に慎重を重ねた動きで、半蔵は弥六に赤子を渡した。
 勘蔵はむずかりもせず、弥六の隻腕に抱かれている。
「おぉ、おぉ、しっかりした子さね。真蔵より、顔はお主に似ているようさ」
「皆も、そう言います。真蔵は確かに楓に似ておりますが、勘蔵はまだ、どちらに似ているかは、儂には」
 素早く空いた父の膝の上に座った真蔵を見下ろし、半蔵は言った。見下ろされた真蔵は父を見上げ、にこりと笑う。
「よく似ておるさ……それに、お主と同じく火の性であるように見えるさね」
「それは、儂にも。
 どれほどのものかまでは赤子ではわかりませぬが」
「そうさね。これからさ」
「は。
 それで、今日は?」
「お主に二人目ができたと聞いたから、見に来たさ。
 今一つの理由はあったが、それはもう済んださ」
「済んだ?」
「儂は、さ。お主はこれからさね」
「それは……」
 「いったい?」と問いかけ、ふと半蔵は言葉を切り、戸口の方に視線を向けた。
「半蔵殿、おられるか」
 同時に、声が外からかけられた。
「うむ、勝手に入ってきてくれ」
「では」
 がらりと戸が開き、隻眼の男が家に入る。
「……」
「どうした、久延(くえ)」
 虚を突かれたような顔で、半蔵と弥六を見ていた男に、半蔵は声をかける。
「ああ、いや、先代殿がおられたとは……お久しゅうございます」
「元気そうさね」
「は、先代殿もそのようで、なにより」
 弥六に一礼し、男は半蔵に顔を向けた。
「里長殿がお呼びに」
「承知した。ご苦労」
「は。
 では、儂はこれにて」
 もう一つ二人に頭を下げると、男は家を出て行った。
「……」
「真蔵も、儂が見ているさ。楓が戻ってくるまででも、良いさね」
 半蔵が口を開く先を取り、弥六は微笑んだ。
 微笑みを受けた半蔵の目が、逡巡に揺れる。
 だが、結局、半蔵は頷いた。
「……は。
 申し訳ありませぬが、お願いいたします」
「任せておくさね」
「は」
 半蔵は深く、頭を下げた。
 その膝の上の真蔵も、父を真似て、ちょこんと頭を下げた。

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