出羽の里長の館の主は、つい一月前に変わったばかりだ。 新たな里長、そして『伊賀の鎧』となったのは、伊織―出羽の里長の姓を継いで、藤林伊織―という名の若者である。年の頃は半蔵とほぼ同じで、共に修練を重ねた幼なじみであり、無二の親友であった。 だが今は、命じる側と、命じられる側だ。 半蔵は一人の忍として、初めて、新たなる里長の前に膝をつく。 場所は出羽の里長の館の庭である。 伊織は縁に立ち、『服部半蔵』を見下ろす。 命を下すこと自体は、伊織は初めてではない。里長になって一月、既に幾人かの伊賀衆に命を下している。 それでも跪き、顔を伏せた『服部半蔵』を目の前にすると、感慨と緊張が伊織の体を走る。伊賀衆のみならず、忍そのものを代表する名、『服部半蔵』を名乗る者に命を下す己の立場の重さが改めて肩にのしかかる思いがするのだ。 ――今更。 伊織は僅かに、目を細めた。 出羽の里長、伊賀の鎧の重さを事あるごとに覚えていて何になるか。 里長となって、もう一月になるのだ。 ――今更、何を。 その一言で己の感情を斬り捨て、ことさら低く、伊織は言った。 「尾張の動きは、知っているな」 「尾張九代、宗睦(むねちか)殿に謀反の意ありと」 顔を伏せたまま、半蔵は答える。 「そうだ。 公儀隠密や御庭番衆が調べているが、確証は未だつかめていない。 もっとも、このことはまだ、我らには関係がない。お上からは何の命も下されていない」 伊織は言葉を止め、息を軽く吸った。 半蔵に下す命は、将軍や幕府に下されたものではない。 伊賀衆を守る……いや、伊賀衆の無念を晴らすための、命だ。 『伊賀の鎧』という、伊賀衆の為ならば幕府の意無くて動くこと、伊賀忍を動かすことが許されるただ一人の者として下す、初めての命。 ――どちらが、重いか。 跪いたまま身じろぎ一つしない『服部半蔵』を見据え、伊織は再び口を開いた。 「尾張に、『玄衆(くろのしゅう)』という忍群を知っていよう」 「尾張徳川家の息がかりの、忍群と」 「ああ。だがそれは宗春公のみまでの関わりだ」 伊織の言う宗春公とは、尾張藩七代目藩主、徳川宗春のことである。 八代将軍となった吉宗と将軍の座を争い、敗れた後も吉宗の政(まつりごと)に真っ向から刃向かい続けた。後、幕府を怖れた家臣達を通じて吉宗に蟄居謹慎(ちっきょきんしん)を命ぜられている。 その宗春の下で働いたのが玄衆である。 伊甲とは異なる流れを組む忍群であり、詳しいことを知る者は少ない。吉宗の治世に、宗春の意を受けた玄衆と伊甲の衆が剣を交えたこともあるが、その実体を知るまでは至らなかった。 「宗春公が亡くなった後はむしろ疎んじられ、辛うじて在り続けているだけだったのだがな。 ところがそやつらが近頃、よからぬ動きをしているという」 「ほう」 「近隣の村々を遅い、略奪と殺戮を繰り返している」 そこまでは、伊織も耳にしていた。 「それだけではない」 伊織は険しい表情を浮かべて見せた。 それだけであったなら、伊織は動かなかったろう。 今朝方この里を訪れた浮草、弥六が運んだ報せが、『鎧』を動かした。 半蔵が、僅かに顔を上げる。 「それらの村々にはいずれも、伊賀の草があった」 ただ人の暮らしに溶け込み、その地の情勢を探るのが、草とよばれる者達である。 「いずれもか」 「いずれもだ」 「襲われた村は、尾張藩の村か」 「国境の辺りを狙っているようだ。 尾張藩の村もあれば、隣国の村もある。 だが、襲われた場所そのものはどうでもいい。肝心なのは、我らが草が次々と刈られていることだ」 故に、と伊織は言った。 「服部半蔵に命ず。 玄衆を、滅せよ」 「はっ」 一声短く、しかしはっきりと、半蔵は答えた。 伊織は頷くと、任の子細を告げ、最後にこう言った。 「手勢として、久延彦らを連れていけ」 「久延を」 「玄衆等の手の内まではわからぬ。久延彦の組は手数が多い、役に立とう」 「承知いたしました」 「他に何か聞いておくことはあるか」 「いえ」 「ならば、行け」 「はっ」 やはり短く答える半蔵に背を向け、伊織は家の中へ入った。 半蔵の気配は、その瞬間には庭から消えた。 伊織は自室に戻ると机の前に腰を下ろし、目を閉じた。 四畳半の北向きの部屋に、日は射さない。 ひやりとした空気が、伊織の身を包み込む。 日向ではまだ夏の気配が強いが、こうしていると秋が北のこの地に忍び寄っていることがひしと感じられる。 その秋も、あっという間に過ぎ去り、長く重い冬が来る。 冬に向けての支度にもかかっていかねばならない。その采配も、里長たる伊織の役目だ。 ――忙しくなるな。 一つ、息をつく。 ――しかし。 ――玄衆の始末は、半蔵に任せておけばよいだろうが、公儀方を放っておくわけにもいくまいな。 公儀隠密や御庭番はまだ玄衆に気づいていないとはいえ、いずれ間違いなくその名に辿り着く。そこまで彼らを無能だとは、若き里長も思わない。 そうであってくれれば楽だ、ぐらいは思っているが。 「弥六殿も、面倒な時期に面倒な話を持ってくるものだ」 ぼやいて、伊織は目を開いた。 机の上に置いてあった細工用の小刀と、割った竹の破片を取る。 「まだ鎧は、身に馴染んでおらぬというのに……」 もう一つ、低く……いくらか重くぼやくと、伊織は竹片を削り始めた。 |