場所は、尾張と美濃の境の山中。
 旅の商人のなりをした久延彦は息を詰め、玄衆(くろのしゅう)の里を見下ろした。
 里は出羽の里よりは小さく、久延彦達のいる位置からは、特に変わったところはないように見える。
 物見台があったり、里の周囲の要所要所に垣や塀が設けられているが、忍の里では当然のことである。
――しかし。
 久延彦は僅かに首を捻った。
――妙に薄気味の悪い里だな。
 しばらく眺めていて、久延彦はこの薄気味悪さの原因が、生気がこの里に感じられないからだと気づいた。重苦しく、寂れた雰囲気が里をおし包んでいるのが感じ取れる。
 里に人の姿はあり、それなりに活気があってもおかしくはないように見えているにも関わらず、である。
 久延彦は、右手をかざすと明き目を細くし、口の中で遠見の呪を唱えた。
 うすぼんやりと里を囲むモノが、久延彦目に映る。意識を集中すると、その意志が『外』を拒絶するモノであることまでが感じ取れる。
 忍の里である以上、人を近づけない、あるいは外を見張る仕掛けや術が周囲に張り巡らされているのは間違いない。久延彦が視ている『意志』は、その術や罠に宿るものだろう。
 流石に種類までは視えないが、久延彦は特に『意志』が濃い辺りを記憶に刻んでいった。
――忍群の本拠地らしい厳重さだな。だが、あの感覚はこいつの所為ではない。
 半蔵はどう思っているだろうかと、久延彦は隣でやはり里を見下ろしている半蔵に目を向けた。
 薬売りの格好をした半蔵は、そのなりには似合わぬ感情の見えぬ目で、里を見下ろしている。
 半蔵には久延彦のような遠見の力こそないが、里の様から見とれることはかなりあるだろう。
――服部半蔵、なんだから、な。
 半ば自分に言い聞かせるために、心中で久延彦は呟いた。
 久延彦はこの半蔵より五つほど年上である。出羽の里で生まれ育った久延彦は、この半蔵が先代に拾われてきたときから見ており、実力はよく知っている。
 間違いなく、伊賀衆一の術と技の使い手であろう。
 しかしそれでも、十五夜そこらで半蔵の名を受け継いだこの青年に、久延彦は不安を覚えている。  
――何故だ?
 対峙すれば十のうち十、斃される。追えば捕らえることはできず、追われれば逃れ得ることはない。そう確信できるというのに、何か、信頼できない。
 かざしていた手を頭にやり、ぼりぼりとかいてみる。
「久延」
 里に目を向けたまま、半蔵が名を呼ぶ。
「はっ」
 慌てて久延彦は手を下ろす。
「どう、見る」
「……半蔵殿は、如何に」
 敢えて久延彦は問いを返した。
 ちらり、と半蔵は久延彦を見たが、その意図に気づいた素振りはなく、
「警戒が厳重に過ぎる」
そう、答えた。
「尾張公の意を受け、幕府に牙を剥こうとしている連中の里。この程度の警戒は当然では」
「外に向いているのならばな」
「は?」
 再び手をかざし、久延彦は里を見下ろす。
 言われてみれば、物見台の者達は里の内の方により注意を向けているように見える。里を包むモノも、外の何者かを中に入れぬ事よりも、中の物を外に出さない、そんな意志の方が強い気がする。
 気づかなかったのは、久延彦がそういった可能性に思い至らなかった所為か。
「……何故に……」
「ここで見ているだけではわからん」
「確かに」
「だが、警戒の大半は内に向いているとはいえ、外より攻める難しい。そうだな」
「は。巧妙に結界や罠が巡らされておりまする。
 薄い箇所がないではありませぬが……」
「そうか。
 久延、ここはお主に任せる。合図があれば、里を攻めよ」
「承知」
「儂はこれより、里に下りる」
「しょう……はっ?」
 頷いた後に半蔵の言葉を理解し、些か間の抜けた声を久延彦は上げた。
「玄衆、侮ってかかれる相手ではない。
 結界で手間取るわけにはいかぬのだ。儂が囮となりて、彼奴等の目を引くが一番の策と見るが」
「何のために我らを率いよと里長が命じられたかをお忘れか。
 あれしきの結界、容易く抜けてご覧にいれる」
「忘れてはおらん。
 だが一つ、確かめねばならぬ事がある。お主の方こそ、それを忘れたわけではあるまいな」
「忘れてなど」
 久延彦は首を振った。
 当初から、こたびの件には疑念があった。
 いくら草を排除するためとはいえ、自藩の村を襲わせ、略奪や殺戮を繰り返させるのは妙である。本気で幕府に背くならば、まず頼れるのは自領のみ。それを弱めてしまっては、いざというときに動けなくなることぐらい、よほどのぼんくら藩主でもない限り考えつくことのはずだ。
 現藩主、徳川宗睦がぼんくらとは言えない。
 また、尾張、名古屋城下町で尾張公周辺を探っていた時に、半蔵達はいくつかの不審な事実を見て取っていた。
 独断専行の気が強かった宗春の事を悔いてか、宗睦は家臣とよく協議した上で藩政を取り仕切っていたのであるが、最近はいきなり命を下すことが増えていることが一つ。
 自室に引きこもり、表に姿を見せることが少なくなっているのが一つ。
 玄衆と思われる者達が名古屋城下に存在しているらしいことが一つ。
 それらだけならば、幕府への翻意の裏付けとなる事実を確認したという事に留まっている。
 しかし、名古屋城に進入した半蔵と久延彦は尾張宗睦の姿を見、「翻意」を抱いているという事に疑念を抱いた。
 操られているようでもない、脅されているようでもない。己の意志で何かを企んでいるようであったというのに。
 それ以外にも、言葉にしようのない違和感を配下の忍達も覚えている。
「しかし」
 そうだからこう、とはならないと久延彦が言おうとしたのを、半蔵が遮る。
「しかし、はない。
 尾張公の意が真かどうか、調べる術はこれより他に無く、また、時間も無い。
 そろそろ裏柳生や御庭番衆も勘づく。急がねばならんのだ」
 表情こそ変わらないものの、険しいものが半蔵の声に顕れる。
 将軍家そのものを守る為に存在するのが伊賀・甲賀の忍衆である。初代家康の血を分けた尾張・紀伊・水戸の御三家もそこに含まれる。
 将軍家に翻意を示す者は、例え御三家なりとも容赦はせぬが、そうではない可能性があるのならば、慎重を期さねばならない。
 その点が、「幕府」大事の柳生とは異なる。
 また、将軍家を大事とするのは御庭番衆も同じだが、紀伊徳川の出である吉宗に率いられてきた彼らは、尾張には含むものがある。好きにさせてはならない。
「選ぶ道は一つしかない」
「ならば、儂が」
「先に行きて道を拓く。それは『刀』の役目だ」
 いっそ冷ややかに、半蔵は言った。
 だが、久延彦はその言葉の端に、玄衆の里に向けられた目に、怒りの色を視た。
――怒っているのか。この方は。
 何故に、と久延彦は自問する。
 怒る理由に心当たりはある。
 草達を玄衆に刈られたこと
 尾張宗睦殿をないがしろにしているやもしれぬこと。
 『服部半蔵』ならば怒ってもおかしくはない。先代の半蔵なら、軽口でくるみつつも、もっとわかりやすく怒りを見せただろうとも思う。
 だが。
――人の心は視えぬ以上、真はわからん。
 胸の奥で独り言ちながら、久延彦は己が何故、この半蔵に不安を覚えたのか理解した。
 先代半蔵のように「見せる」ではなく「見える」のが、気にかかるのだ。
 先日、任を受ける前に見た、子を抱いた半蔵の姿が思い出される。
 強く表に出る想いではない、だが、深い慈しみが、若い半蔵の中にあるのがわかった。
 忍とて人。家族を持って当然であり、子を慈しむのに何の不思議もない。だが半蔵は、『服部半蔵』だ。
 忍そのものを体現する、せねばならぬ存在であり、『刀』として伊賀衆全ての先に立つ身である。
 情を持つことが疎んじられ、情が枷となることもあるだろう。
 そしてその枷は、伊賀衆よりも、半蔵自身に害を為す。いっそ情に殉ずる愚かな忍であればいいものの、この半蔵は情を持ちつつも、『刀』として、『服部半蔵』としての責務を果たすことの躊躇いがないのもまた、事実なのだ。
「承知、いたした」
 頷きつつ、無意識に久延彦は表情を曇らせていた。
「久延」
「はっ」
「合図があるまで、決して動くな」
 感情のない、『服部半蔵』の目が、ひた、と久延彦を見る。
「御意」
 忍の表情で、久延彦は頷いた。
「ご無事で」
 それも思わず、そう付け加えてしまっていた。

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