音もなく、闇色の装束に身を包んだ男が地に降り立つ。
 首には、鮮やかな真紅の巻布。
 頭は覆面と、いぶした金色の鉢金。
 その下からわずかに除く、感情の無い、鳶色の両眼。
「……伊賀者……下忍ではないな……」
 朧は腰を落とし、両手を高く掲げた。。
 じゃらりと音をあげて、鋼の蛇が朧の両脇で鎌首をあげた。その頭は先ほど貫いた下忍の血で真っ赤に染まっている。
 対する男は腕を組むと、朧を睥睨(へいげい)する。
「伊賀衆が刀、と言えば貴様にはわかろう」
 低いが、よく通る鋭い声が覆面の下から発せられた。

 じゃらん

 大きく音を立て、鋼の蛇が身を引く。
 眉一つ動かさなかった朧とは、裏腹に。
「ふん……半蔵、か……クク……カカカ……」
 朧は、歪んだ笑い声をあげる。
「憎き伊賀者の筆頭が自ら出張ってくるとは、ありがたいことよ。
 我らが一八○年の恨み、思いしれい!」
――くだらん。
 半蔵は胸の内で吐き捨てると、背の忍刀に右手をかけて右足を引いて身を低くし、左手は体の前で構えた。
 しう、と鋼の蛇が空を裂いて半蔵に襲いかかる。
 紅い尾を引き、再び半蔵は宙に舞う。その足の下で虚しく鋼の顎は空を食む(はむ)。
「甘いわっ!」
 半蔵の上下左右から一斉に、新たな四条の鎖が半蔵に食らいつく。
――くっ!
 咄嗟に、半蔵は印を切る。
 次の瞬間、紅い欠片が千々に舞った。
「クカカカカッ、服部半蔵、恐るるに足ら……!?」
 朧の哄笑を、鋭い声が断つ。
「臨!」
 空より日々くその声は、まごうことの無い、服部半蔵のもの。
 まさに影のごとく鎖から逃れた半蔵は、朧に空より斬りかかった。
「なんの、漆(しち)っ!」
 七つ目の鎖が、半蔵の喉笛めがけて飛ぶ。
――ちっ。
 瞬時の判断で半蔵は鎖を横薙ぎに払うと、朧から三間ほど離れた位置に降り立つ。
「幕府の犬めが」
 じゃっ!
 息つく暇も与えず六条が一斉に、僅かに遅れて今薙ぎ払われた一条の鎖が、半蔵に襲いかかる。
 半蔵は、忍刀を握ったままの右手を、地に叩きつけた。
「微塵隠れっ!」
 叩きつけた右手を中心に、爆炎が吹き上がり、鎖をはじき飛ばす。
 くわ、と朧は目を見開き、ぎり、と唇を噛んだがすぐに大きく手を振るい、叫ぶ。
「捌(はち)、玖(く)!」
 これまでよりも太く長い、赤と青の鎖が、爆炎を突き破って半蔵に襲いかかった。
――全て、来るか。
 自分の周りで幾つもの鎖が鎌首をもたげる音を、半蔵は同時に、聞いた。
 新たに襲い来るのが二、これまでに放たれたのが、七。
 半蔵は地を蹴った。
 跳ぶように、前へ、朧に向かって、駆ける。
 その頭のすぐ上を、鋼の蛇の顎が掠めた。
 構わず、半蔵は、地を蹴って早駆けに駆け、間合いを詰めていく。
 その後ろで、半蔵を貫かんとして僅かに届かなかった鎖が地に突き立っていく。
――ひとつ、ふたつ、みっつ
 視界の隅に見える鎖は、全て鈍い鉄の色。
――よっつ、いつつ、むっつ……ななつ!
 朧まで、後僅か。
 だが半蔵の隙を狙う気配が二つ。
 最後の二条の赤と青の鎖。魔器か、妖具か。生き物にも似た気配を放つそれらは、他の鎖とは違う。
――……構わん。
 半蔵は駆けながら漸く背の刀に手を掛けた。
 朧が、般若のような形相で腕を振り上げる。

 おおおおおおおおんっ!

 「なにか」が、喚く(おめく)。
 じゃっ、と鎖が叫び、紅の鎖がいくつもの細い鎖に分かれ、上空から投網のように半蔵を呑み込まんと襲いかかる。
 蒼の鎖は稲妻のような軌跡を描き、半蔵の真正面から飛びかかる。
「………………」
 半蔵は、駆ける。
 獣の如く身を低くし、紅い尾を引き、一陣の風の如く速く。
「愚か者めがぁっ!
 我が鎖より逃れられるはずもないわ!」
 朧の顔が醜悪な喜悦に歪み……だがふと、怪訝の色に転じる。
 鉢金の下の半蔵の鳶色の目が、嘲笑に染まったのを見た気がして。
「死ねや、半蔵!」
 朧は己が見た「嗤い」を砕くが為に、叫んだ。
 瞬間、半蔵の姿が、消えた。
「なっ!?」
 赤と青の鎖が、朧の動揺そのままに、ぴたりと止まる。
 藪を払うような音が響き、ばらばらと紅い鎖が落ちる。
 風を切る音と共に、青い鎖を手裏剣が地に縫いつける。
 そして、紅を宿した闇が、朧の前に舞い降りた。
 それが、半蔵だと気づいたその時には、半蔵の右手が朧の心の臓の上にかざされ。
「毒龍」
 胸を貫かれる衝撃と、「内」から焼き尽くされる激痛に、朧は絶叫した。
 最後に見たのは、朱に染まる視界。その向こうに立つ、影。

 長い絶叫の後、奇妙に軽い音を立てて朧は倒れた。
 息はしていない。
 半蔵自ら「禁じ手」としている「毒龍」を喰らって生きている者などいない。
 ただの骸と化した朧から視線を外すと、半蔵はゆっくりと振り返った。
 その動きには不自然なほど大きく、紅の巻布が翻る。
 振り返ったその前に、久延彦が控えていた。
「里の者は、抵抗した者以外は広場に捕らえてあります」
「何故に」
「里の長とおぼしき者が、降服の意を。
 全てはその朧なる者の勝手な振る舞いであると」
 半蔵の鳶色の目が、僅かに細くなった。
「それで」
「……」
「命は殲滅」
 酷薄だとか、冷徹だとか、そんなものではなかった。
 感情のない、ただの「言葉」だった。
「……は」
「が、生かして使い道を探るも、悪くは無かろう」
 続いた言葉もまた、ただの「言葉」以上のものではなかった。
「……は」
 それでも思わず久延彦は息をつき、自分には見えぬものがそこにあるのだと、信じた。

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