一 ある忍


 男は目を覚ました。
 暗い。
――夜……いや……洞窟だ。
 岩肌が見える。赤い光がゆらゆらと揺れる。
 ぱちぱちと火がはぜる音。人の気配が一つ。獣の匂いがする。
 視線をゆっくりと動かす。
「…………!?」
 目を見開く。
 捕らえた異形の姿に。
「よかった、気がついたね」
 いや、人間だ。
 にっこりと微笑む青年は、金の髪に青い目をしていたが化物では、ない。
――……異人…
 話には聞いたことがある。だが、目にするのは初めてだ。
 だが何故こんな所に異人がいる。
 男は視線を青年に置いたまま、身を起こした。
「……くっ……」
 体のあちこちが悲鳴を上げる。
――右肩がひどいか……だが足は、動く。
 傷にはすべて丁寧に処置が施されている。だが、幾らか甘い。処置の仕方は知っているようだが、経験が無い者がしたようだ。
 当然己ではない。
 さっと回りを見る。
 やはり洞窟だ。それほど広くも深くもない。雨露がしのげる程度だ。
 ここにいるのは自分と異人の青年と、一匹の犬―白と黒の毛の、普通の犬よりも二回りは大きいそれは、やはり異国のものか―だけだ。
 となると。
「だめだよ、まだ寝てなきゃ」
「……お前が、俺を助けたのか」
 動きをとどめようとした青年の手を払う。
「見つけたのはパピーさ」
 青年の声に答え、犬がぱたと尾を振った。
「目が覚めてよかった」
 またにこりと笑う。屈託の無い、まっすぐな笑みだ。
 しかし何故か……かんにさわる。
「礼を言う」
 頭を下げつつ、襟元に指を走らせる。
――……無事か……
 安堵する。
 そこでようやく、男は青年をじっくりと見た。
――なんだ……こいつ?
 奇妙ななりである。絵で見た異人のなりではない。この国のものだ。しかも、よく知っている装束。
 忍の装束。色こそ空色だが、間違いない。こんな装束を着ているのは、
「……お前……忍、か?」
「ああ、そうだよ」
 それでも疑わしい気持ちで問うた男の言葉に、いとも簡単に青年は頷いた。
「………………」
「俺はアメリカ人なんだ。子供の頃から忍に、ニンジャに憧れてて、五年前に我慢できなくなってこの国に来た。そして忍になったんだ」
――……あれか。
 噂で聞いた。
 元甲賀の女が異人を引き取り、忍として育て上げたと。
 本来とても有り得ない話である。それでいて、どうやら真らしい。
 だがその詳細を調べた者はいない。今は離れているとはいえ甲賀の者であり、伊賀とも関わりを持つ女に下手に近寄るのは危険だ。
 故にすべては薮の中であった。
――真であった、という事か。
 面白いことを知ったと思う。
 鎖国を敷いたこの国に異人がいる。しかも忍になったという。幕府の手、足、目となって働く忍の手で…
 このことを幕府が知れば、どうなることだろう。
――伊甲をつぶすか……いや、それはできまい。だが、ただですむわけもない…両頭領の首ぐらいは飛ぶか。
 面白い。
 だが。
 顔には出さず、ひそやかに苦く笑う。
 そう幕府にさせることはできるかもしれない。ただし、今の状況から逃れることができれば、の話だ。
「どうしたんだい?」
 青年をじっと見つめたまま黙り込んでしまった男を心配したのか、青年が顔をのぞき込む。
「俺を見つけてから、どれぐらいたった」
 問いには答えず、問う。
「一刻は経っていない。見つけたときにはまだ傷は乾ききってはいなかったよ」
「……そうか」
 諦めるには早すぎる。それどころか、そろそろまずいだろう。
 ゆっくりと、立ち上がる。
「お、おいっ!」
「世話になった」
「その体で動くなんて無茶だ」
 言葉を無視し、一歩踏み出す。
――……っ………
 動ける。
「待て」
 やはり無視。行かねばならないのだ。それに、こいつは…
 しかし続いた言葉に、男は耳を疑い、足を止めていた。
「俺も行くから」
「なに?」
「追われてるんだろ。一人じゃ危険だ。俺とパピーが一緒に行く」
「なんだと?」
 知らず、声が怪訝なものになる。
 こいつは何を言っているのだ?
「放っておけないよ」
 言って男の肩を支える。
「何故」
「当然だろ?」
 己の言葉に些かの疑念も迷いもない。
――……おかしな奴。
 だが、使える。ならばそれでいい。
――たとえ…たとえ?
 やはり何かある。それが何かはっきりしない。胸の奥に不快感がわだかまる。
 だが、肝心なことはただ一つだけだ。
「わかった。頼む」
 男は決め、青年の肩に身を預けた。


 日は、中天から西に傾き始めていた。
 最後の記憶では太陽は中天の手前だったはずだ。ということはやはり一刻は経っているようだ。
 山はひっそりとしており、人の気配はない。
 口の中で転がしていた丸薬を噛み砕く。
――いるな。
 姿を見たわけでも、気配を感じた訳でもないがわかる。近くにいる。
 虫の知らせなどというものでもない。
 むこうも自分も忍である。それが理由だ。
 己ならばまだいる。むこうもそう考える。
――「奴」なら、確実に……
 思考を打ち切る。ほぼ同時に青年の呼吸が変わった。
「いる……」
「ああ」
 頷き、青年から身を離す。
 後ろ腰の刀を左で抜く。右には期待できない。薬のおかげで痛みは感じないが、これでは満足には刃は振るえまい。
 青年が一歩前に出、男をかばえる位置に立つ。
 本気でかばう……というより守るつもりらしい。
 つくづくおもしろい奴……と、思う。
 左へ跳ぶ。背後から迫った刃が、力ない右腕を掠める。
 心が苛立ち…怒りに騒ぐ。
 正面から黒い影が走り来る。
 闇色の装束に、紅い巻布。忌々しい「奴」だ。
「……え……」
 ぎぃんっ!
――ほう。
 受けた。
 「奴」の一撃を、青年は幾らか押されながらも受け止めた。
 視界の隅に入ったそれに感嘆を感じながら、着地。
――三。
 下段、中段、上段。
 真上へ跳ぶ。足の下で空が鳴く。
 左腕を振り上げる。宙で、前転。勢いのまま、最も手近にあった「それ」に刃をたたき込む。
 何もない空を彷徨う三本の刀が見えた。
 抑えたうめき声。死んではいないか。
 地に足が触れると同時に、蹴る。一人、倒れる音。構う気配もなしに二つ、来る。
 身を捻り、左肩から転がる。立ち上がると同時に、一閃。
 ぢん、と金属音が上がる。
 一人が跳び下がる。
 遅れて、刃を弾かれたもう一人が、下がる。
 間隔を取って二人は、じり、とこちらを伺う。
 向こうに、「奴」と対峙する青年が見えた。
――……まだ生きている。
 思った以上の腕らしい。
――が、それだけではない。
 ぐんっ、と右足を軸に身を回し、襲いかかってきた一人の刃を躱わす。
 「奴」は青年を倒す気はないらしい。本気ではない。抑えておく程度といった気ぶりだ。
――倒せないわけがある…?
 低く前に跳ぶ。
 左右からの同時攻撃を辛うじて、躱わ……
「…………!」
 左足に走った衝撃に、体勢が崩れ、倒れる。
――いま一人……かっ
 地を転がって追撃を逃れ、身を起こす。ちらと見やれば左のふくらはぎには手裏剣が突き立っていた。痛みは感じないが、うまく動かない。
――ここまで……か。
 逃れることはもはや不可能だ。
 それを知っており、それでも最後の抵抗を警戒しているのだろう、三人―いま手裏剣を打ったもう一人も姿を現した―はゆっくりと刃を構え、近づいて来る。
 青年の方に視線だけを向ける。
 こちらに背を向けているが、様子には気づいているようだ。しかし「奴」に完全に制され、どうすることもできないでいる。
――それでいい。
 無理矢理に立ち上がり、構える。
 同時に、三つの気配が、来る。
 垂れ下がった右腕を、後ろ腰へ回す。
「下がれっ!」
 「奴」の声。
――……………
 そこに男は怒りを感じた。
 錯覚かもしれない。だが、間違いないと男は確信した。
 知る。
 それは己の中にあったものと同じだ。
 おかしい。
 にぃっ、と男は嗤った。

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