「………………」
 男の子は口をつぐみました。
 まよったなんて、言いたくありません。こわくも、悪くもないにちがいない、そうにきまっている「なにか」ですが、言うのはなんだかくやしい気がしてならないのです。
「かえるみちがわからないの」
「あ!」
 それなのに、女の子はあっさり言ってしまいました。
「なに?」
「なんで言うんだよ!」
「だってそうだもん」
「だけど言わなくたって!」
「このままじゃかえれないもん」
「うー」
「なるほど」
 頭の上から降ってきた声に、二人は顔を上げました。
「つまり、道に迷って、こんなところにいるということだな。
 おおかた言いつけを守らないで、行ってはいけないこんなところにまで来たのだろう?」
 今度ははっきり、呆れた様子が感じられました。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 二人はなにも言えません。そのとおりなんですから。
「仕方がない奴らだな……仕方がないといえば、仕方がないんだろうが……」
「え?」
「なあに?」
 苦笑が交じった「なにか」の言葉におかしなものを感じ、二人は首をかしげました。
「なんでもない。
 それで、お前達はどうするつもりだ?」
「……かえりたい……」
 ぐす、と女の子がはなをすすりました。
「かあさま、きっとしんぱいしてる……」
「……かあさま……」
 男の子の声にもなみだがまじります。
「泣いても帰れないぞ」
「わ、わかってるよ!」
 ぐいと目をこすり、男の子は「なにか」にむかってさけびます。
「ふむ、それで、どうするつもりだ」
「………かえる」
「どうやってだ?」
「……うー」
 道はわかりません。
 夜の森はくらいです。
 男の子にも女の子にも、どうしようもありません。ただうつむくばかりです。
 草を踏む音が聞こえました。
「ついてこい」
「……え?」
 顔を上げた二人の前には、一人の男がいました。
 背が高く、肩の広い、大きな、大きな男でした。
 アイヌの着物と違う物を着ておりました。腰のところと、膝から下のところをきゅっとすぼめたような着物でした。
 暗いので、そんな形しかわかりませんでした。
 ちょっとのあいだ、こわいのもおどろくのもぜんぶわすれて、男の子と女の子は男を見上げました。
「どうした」
 ぽかん、と口を開けたままの二人に、男は怪訝な様子で言いました。
「おんなじだね」
「おんなじだね」
 女の子と男の子は顔を見あわせます。
「?」
「あのね、おじさんね、もっとこわいかとおもったの」
 男を見上げ、にっこりと女の子はわらいました。
 男のせがたかいのと、夜の暗いのとのりょうほうで、その顔はちっとも二人には見えなかったのですけれども。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 今度は男が二人をじっと見ました。
「おじさん……?」
「そうか」
 男は、小さく笑いました。
 少し驚いたようにも、少し困ったようにも、少し嬉しそうにも感じられました。


 草を踏む音がします。
 男が歩きます。
 二人の少しまえを。
 二人は男の足音をたよりにけんめいにおいかけます。
 そうしないと、少し男のあゆみは速いので、おいていかれてしまいそうになるのです。
 それでも二人は「まって」とは言いませんでした。
 男があるくうしろを、ときどきこばしりになりながらも、ついていきました。
 男はそれに気づいているはずなのに、何も言わず、ただ、歩き続けました。


 どれぐらい歩いたか、二人がくたびれてきた頃、男は足を止めました。
 二人はほっといきをつきます。
「……あ」
 男の子が気づきました。
 ここは見おぼえがあります。森の入り口です。コタンまであとすこしです。
「ここから先はお前達だけで行けるだろう」
 男が言いました。
「え?」
 二人は男を見上げました。
「いっしょにいかないの?」
「儂は行けない。月明かりとはいえ、光の下は少し困る」
「おじさん……」
「やはり悪いアイヌやもしれんな?」
 男は小さく笑って言いました。
 悪いアイヌは守らないといけないきまりを破った者たちです。その為、彼らはよいアイヌと一緒には暮らせないのです。
 でも。
「ちがうよ」
 男の子は言いました。
「ん?」
「おじさんは、悪いアイヌじゃないよ」
「悪いアイヌじゃないよ」
 女の子も言います。
「そうか」
 男は、頷きました。それが、さっきよりも嬉しそうに感じたのは、二人の気のせいではないはずです。
「だが、一緒には行けない。さあ、母上のところへ帰るんだ」
「……どうしても?」
「ああ」
「………また、あえる?」
 なみだを目にいっぱいにためて女の子は男を見上げました。どうしてかわからないけれども、このままもう会えなくなるということがかなしくてつらくて、むねがきゅっとしめつけられる思いがしたのでした。
 男が困った表情を浮かべたのがわかりました。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「あえない?」
 男は黙って、一歩、下がりました。
「おじさん……」
「母上の言いつけはちゃんと守れ。いいな」
 不意に、さっ、と月の光が舞い降ります。
 コタンコロカムイの声が聞こえます。
 男はそれらから逃げるように、森の奥へ走りました。
 二人は見ました。
 男の左腕に布が縛りつけてあったのを。
 青い布でした。
 そしてその布には、二人の着物や男の子の鉢巻とよく似た刺繍がしてありました。
 それは少しのあいだのことだったのに、二人にははっきりと見えました。


「さん」へ
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