春一番が駆け抜けて冬を吹き払い、そのしるしに大陸から運んだ黄砂を降らせていったのが、五日前のことである。 草木は日々緑を新しくし、花を咲かせる。 風は穏やかさを取り戻し、軽やかに天駆けながら、『春』を南から北へと運んでいく。 その風に踊る小さなかけらが、峠道を登ってゆくナコルルとリムルルとすれ違っていった。 「あ……」 リムルルは足を止めて、ひらひらと峠を下るように流れていくかけらを目で追う。 花びらは 「はな……びら?」 ふるり、とコンルが揺れる。 「花びら……!」 ぱっ、とリムルルは振り向いた。ようやく見え始めた峠の頂上に、こんもりと白いかたまりが見える。 そこからちら、ちらと花びらが流れてくる。 それはリムルルが見た、今年初めての桜だった。 「姉様、“さくら”だよ!」 姉を振り返り、大きく腕を広げて声を挙げる。 ひらりとリムルルの頭を飾る空色の飾り布が、その動きに併せて翻る。 それが再びおとなしく収まるより速く、そして姉の答えを待つこともなく、歓声を上げて少女は駆け出した。 おいて行かれまいとでもいうように、慌てた風にコンルがその後を追う。 「リムルルったら……」 ナコルルが少し呆れた様子で呟くと、ぱた、と側に控えていたシクルゥが尾を振った。 「……そうね」 小さくナコルルが微笑むと、空をゆくママハハが一声高く、鳴いた。 走り、坂を上っていくと、花の白い固まりはずんずんと大きく、リムルルの視界に広がっていく。 その様は、朝、山の端から登る日輪のようであった。桜は夜を払う光の代わりに、己の白い欠片を風に乗せるのだけれども。 そして、峠を登りきったリムルルの目に、その木の姿が飛び込んだ。 「わ、ぁ……」 桜は、少なく見ても百年は生きているだろう。高さは一丈と半ぐらいだろう。それほどは高くないが、リムルルであれば二人でやっと抱えきれる太い幹をしており、そこから四方に広く枝を伸ばしている。その枝は一番先まで隙間無くと言ってもいいほど、みっしりと白い花をつけ、さやかな風に、あるいは枝を渡る小鳥の羽ばたきに、また、休む旅人の声の響きに、ほろほろと花びらを散らしていた。 「…………あれ?」 感嘆の声を上げて桜を見上げていたリムルルは、ふと、視線をおろす。 桜の広げた枝の下には茶店があり、旅人たちはそこで休息をとっている。今いるのは浪人が一人、商人が二人に、巡礼が一人、旅芸人が一人の五人である。 リムルルの視線は、巡礼と談笑している旅芸人の少年に向いていた。 「どうしたの、リムルル? 私たちも、ここで休憩する?」 やっとおいついたナコルルが声をかけても、リムルルは答えない。じっと、少年を見つめている。 視線に気が付いたか、少年がリムルルに顔を向けた。 髪を茶筅髷(ちゃせんまげ)に束ね、よく日に焼けた黒い肌をしている。年はリムルルより少し上だろうか。 『あ』 そう声をあげたように、少年の口が開いた。驚きと、戸惑い、それらに隠した喜びを乗せ。 リムルルの大きな黒い目が、見開かれる。その顔には、満面の、笑み。 「勘蔵さん!」 嬉しそうにリムルルは声を上げた。 声の大きさにびっくりしたのか、浪人がむせ返っていたが、気にもせずにリムルルは少年の元へ駆けた。 少年は観念した様に苦笑しながら、駆け来るリムルルを見つめている。 リムルルは花びらが散る中を駆け、飛び込むように少年の前に立った。 「久しぶりだねっ」 「ああ、うん、久しぶりだな。 ……元気、そうだな」 やはり苦笑したまま、勘蔵は答えた。 その苦笑は目の前に現れた少女にではなく、勘蔵自身に向けていたものだった。疎むべき、できうる限り関わってはならない事態を、歓迎し、喜んでいる己に気づいていたからだ。 何故か、はわからないのだが。 「うん。勘蔵さんも元気そうね。 ねっ」 言って、じーっと、期待に満ちた目でリムルルは勘蔵を見つめた。 「……?」 勘蔵は首を傾げる。 「どうかな?」 リムルルは期待に満ちた目で勘蔵を見つめている。 「何が?」 「…………」 きゅ、とリムルルは眉を寄せた。 不満そうに、怒った風に。 「……えっと……」 勘蔵は困って、頭をかいた。 「……変?」 「は?」 「……この、服」 リムルルの頬が、ぷうっ、と小さく膨らむ。 「え……?」 言われて初めて、勘蔵はまじまじとリムルルを頭のてっぺんから足の先まで眺め見た。 リムルルは藤色の上衣に、白い袴姿をしていた。髪には今日の空と同じ色の飾り布を結び、靴も同じ青。以前とはまるで違う格好だ。 勘蔵は慌てて首を振って口を開いた。女性というものがその年齢を問わずになりを気にするものだと言うことは、勘蔵とて知っていたのだ。 「あ、いや、変じゃない。全然変じゃない。よく似合っているし……」 頭に浮かんだ言葉を口にしようとしたとき、何故か、言葉が途切れた。 「かわいい……と、思うけどな」 少し口ごもって、その言葉を付け足す。 「か、髪も、伸びた……か?」 更に、付け足す。妙に動揺している己を、奇妙に思いながら。 「うんっ、ちょっと、伸ばしてるんだ」 嬉しそうに大きく、リムルルは頷いた。膨れた頬はもう元通りである。 「そうか」 「良かった、変じゃなくて」 安心した顔で、リムルルはにっこりと笑った。 その笑みに、勘蔵も安堵を覚えた。 「うん。 前のよりも、俺はいいと思うな」 座ったら、と、手で自分の隣の席を示す。 「うんっ」 頷き、リムルルが座ろうとした、その時。 |