かとれあ


「お久しゅうございます」
 橘右京が新居の庵を訪れたのは世が平穏を取り戻して一月ほど経った時のことである。
 季節は、盛夏だった。
 庭では百日紅が、花の盛りを迎えている。
 蒸し暑いが、良い天気の日だった。
「おや、橘殿か。久しいですのぉ」
 縁で本を読んでいた新居は、目を上げて笑いかけた。
 魔の脅威が世界を襲った日々の後、知った者に再会できるのは老人には嬉しい。
「儂に、用ですかな?」
「はい。
 今日は、見ていただきたいものがあって参りました」
「ほう、何かな?」
「この、花を」
 手にしていたものを、右京は差し出した。
 鉢植えを運びやすいように風呂敷で包んだものである。持ち手の隙間から、白い花が顔を出していた。
「これは?」
 包みを受け取って、新居は右京に縁に座るように示した。
「魔界の入り口で手に入れました」
 示されるままに腰を下ろし、右京は答える。
「魔界の入り口……島原かな?」
「そうです」
「さようか……覇王丸めの話、ほらではなかったか」
 魔の気配が絶えて何日か過ぎたある日、覇王丸が尋ねてきた。
 九州の酒を手みやげに、まだ新しい傷跡を体のあちこちに残していた覇王丸は島原の地で起きた異変のことを語った。それで新居は世の異変の大方の原因を知ることができたのである。
 もちろん、覇王丸の話をほらだと思ったことは、ない。
 覇王丸はこういったほらを吹く男ではなかったし、よく遊びに来る飛脚からも同じ話を聞いていたこともある。
「儂に調べて欲しいということは、この花は………」
 驚きと、未知なる物への好奇心、右京の行動への感嘆をない交ぜにした表情を、新居は浮かべた。
「それを、知りたいのです。
 調べていただけませぬか」
 じっ、と右京は新居を見つめ、言った。
 この男には似合わぬ激しいものを宿した、声と、目で。
 精一杯、それらを抑えようとしてはいるのだろう。だが、抑え切れぬ想いが僅かに声を震わせている。
――『究極の花』、か。
 あの日、『究極の花』のことを右京に語った日のことを新居は思いだした。
 真剣な、射抜くような右京の、目。
 あの顔は、覇王丸と似ていたのだと、不意に新居は気づいた。
 もう十年も前になるか。覇王丸が故郷を捨て、剣のみに生きると決めたことを新居に告げに来た日。その時の顔とよく似ていたのだ。
 あの目は、己が懸けるものを見つけた、そう、言っていた。
 あの時の右京の目も、同じく。
 そして、今も。
「……心得た」
 その想いに新居は頷き、花へ視線を移した。
 凛とした雪の白をしていながらも冷たさのない、優雅で美しい花だ。だが老学者の知る限り、日の本の国の花ではない。
 その形に似た花は日の本の国にはない。異国の花にもあったか、どうか。
 また半月近い旅を経たというのに、花びらにくすみ一つ、見つけられない。
「この花は……」
「この花」
 右京の問いかけを遮って、老学者は口を開いた。
「儂も本物を見るは、初めてじゃ」
「……それでは」
 右京の声に熱が宿ったと、老学者は思った。
 顔は見ない。だが、僅かに体を乗り出した、その衣擦れの音は確かに聞こえた。
「本で、見たことがあるだけじゃの。蘭書だったかのぉ……」
 つい最近手に入れたばかりの、蘭学の植物学の本にあった花を、新居は思い出した。
 再び、右京に目を向ける。
 青年の抑えられた表情の中にあるのは、期待と、すがるような切実さ。
「……橘殿は、どちらかな」
 目を細くし、新居は問うた。
 普段なら、問いはしない。年寄りが年寄りの頭で判断し、思う通りに答えてやる。
 しかし。
「……は?」
「儂に物を尋ねに来る者には、二つあってな」
 花に目を戻し、まるで花に言い聞かせるように、老学者は言った。
 珍しく、迷っていた。
 右京の切なる想いを感じる所為か、その身が病に冒されている所為か。間違えてはならぬと、強く感じていた。
「一つは、わからぬこと、知りたいことを教わろうとする者」
「…………」
「一つは、儂の口から答えを聞きたい者」
 何を言っているのかわからない、右京の視線がそう言っている。
「答えはもう知っておるのにな、学者の言の後押しが欲しいのじゃよ。
 橘殿はそのどちらかと、思うてな」
「私は……」
 右京の視線が、己から逸れたのを、老学者は感じた。
「私は、知りたいだけです」
 何故だろうか。
 右京の声には震えもなく、熱もなかった。
 激しい切なる想いが消えたわけではない。だが、何か突き抜けたように、静かだった。
 右京が見ているのは、あの日の桃の木ではないかと、新居は思った。
 今は花をつけていない、緑の葉を茂らせた桃の木を見ているのだと、新居は思った。
 実の生る桃にすればよかったかもしれない、とも思う。
 そして新居は、言葉を選んだ。
「思い出した」
「え?」
「この花はな」
 優しく、花に語りかける。
「『かとれあ』と言う。
 異国の花じゃよ。えげれすだったかのぉ」
「かとれあ、ですか」
 繰り返した右京の声には失望と安堵が入り混じったと、新居は思った。
 その顔には、失望も安堵も超え、あの時と同じ表情が浮かんでいるに違いない、とも。
「うむ。
 残念じゃが『究極の花』ではない」
「そうですか……」
「うむ」
「わかりました。
 ありがとうございました」
 頭を一つ、下げた気配。
「いやいや、そのように礼を言われるほどのことはしておらぬよ」
 安堵し、老人は、若者を見た。
「いえ」
 右京は新居の顔を見、また一度、頭を下げた。
「これから、どうされる?」
「花を探しに、参ります」
 右京は縁から降りると、剣を手にした。
「さようか。
 この花は?」
 白い花は、新居の手の中で、微かな風に震えている。
「『究極の花』ではない以上、私には不要です。
 今度の礼と言うのはおこがましいですが、もらっていただけませぬか?」
「では、ありがたくいただこうかの。よい酒の友となりそうじゃ」
 小さく笑みを浮かべた右京に、笑みを浮かべて言葉を返すと、新居は一言、付け加えた。
「ついでじゃ、そこにな、この花を植えてくれんかな」
 右京は、苦笑した。

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