出立


 ふらりと服部半蔵が出羽の里を訪れたのは、北国の遅い春、真っ盛りの頃だった。
 墨染めの筒袖と野袴に革履、腰に一振り刀をぶら下げただけの軽装である。
 草木がほっこりと咲かせた花の間を抜け、かしこまった挨拶を送る里の者達にいちいち答えながら、一際大きな家の門をくぐる。
「半蔵様!」
 その小柄な姿を見つけた少年が一人、駆け寄って来る。修練の途中であったのか、手に抜き身の刀をぶら下げている。
「やあ」
 人懐こい犬を思わせるその少年の頭を、軽く半蔵は撫でた。
「元気そうさね」
 駆け寄った少年の顔から、もう一人、庭にいた少年に視線を移す。
 最初の少年とは対象的な、若い鷹か鷲を思わせる、鋭い顔立ちと目をした少年だ。やはり白刃を手にしていた。
「だいぶ修行したさね」
 そう半蔵が声をかけると、少年の顔が崩れ、しかし次の瞬間には、ぷい、とそっぽを向いた。
「照れてやがる」
 小さく最初の少年が呟く。
「里長はいるさね」
「奥に」
「ついてくるさね」
 うんうんと頷いて言い、半蔵は家へと歩を進めた。


 出羽の里長である藤林左門は、読書中だった。
 二人の少年を従えて入ってきた半蔵を認めると、本を脇に起き、座したまま迎える。
「急だね」
 いつもと変わらぬ、穏やかな、どこか笑んでいるような表情で、言う。
「役目の途中さね」
 答えつつ、座す。
「ほう」
 ぽり、と半蔵は頬をかいた。
「長門さね」
「ほう」
 左門はやはり、そう言っただけだった。
 しかし、長門に行くのに、なぜ出羽に寄るのか。障子の側で控えた少年二人の顔には、どうにも理解できない、といった色が浮かんでいる。
「それで」
 半蔵は二人の方を振り返った。
 その目は鷹に似た少年の方を見ている。
「連れて行くさね」
「連れて行くかい」
「連れて行くさね」
 繰り返す。
「……おい」
 犬の少年が、鷹の少年を肘でつつく。
 つつかれた少年は、それさえ気づかぬように、ただ、きょとん、とした表情を浮かべていた。
 そんな少年達の様子など知らぬ風で、左門もまた一人に顔を向け、言う。
「なら、あれも連れて行っておくれ」
 今度はつついた方の少年が驚く番だった。
 もっとも、こちらの少年はただ軽く眉を動かしただけで、外目からはその感情はわからなかったのだが。
 しかし、少年二人が驚くのも無理はない。この二人、年の割にはかなりの技や術を身につけてはいるし、すでに任に出た経験もある。周りから忍としては、一人前として扱われている節もある。
 それでも服部半蔵と同行するには力不足であり、まだ若すぎる。少なくとも二人はそう思っていた。
「使えるさね」
「藤の一人だよ」
「なるほど」
 一つ頷いて半蔵は立つと、驚きの覚めぬ少年二人の元へ歩み寄り、ひょい、とその前にしゃがんだ。
「なんと呼ぶさね」
 二人は顔を見合わせる。
「役目の時の名は、決めてあるさね?」
 もう一度半蔵が言うと、犬の少年の方が先に答えた。
「気成(きなり)」
「…蘇枋」
 若鷹の少年も、続いて答える。
 半蔵は満足げに頷くと、自分を指さした。
「浅葱」
「浅葱、様」
 繰り返した少年二人の肩を叩き、半蔵は言う。
「支度して来るさね」
「急ぎなさい」
 左門が言葉を添えると、
「はい!」
大きく言うと、少年二人は部屋を出て行った。見かけはおとなしく、落ち着いてる風を装ってはいるが、心ははやっているのが大人二人には見て取れた。
「障子は閉めておくれ」
 やんわりと、左門が言う。
 ばたばたばたっ
 慌てて引き返し、蘇枋が障子を閉める。
 ばたばたばたばたっ
 駆け去る足音が遠ざかる。
「茶でも出そうか」
「いらんさ」
 左門の方に向き直り、座り直す。
「いい『子』に育ってるよ」
 蘇枋の閉めた障子に、左門は目を向ける。
 半蔵が一人の童をここ出羽の里に連れてきたのは、七、八年ほど前のことである。「世話を頼むさね」と、言葉を添えて。
 一見すると、普通の童に見えた。だが、ほんの少し、他の童と違うものをその童が持っていることに左門が気づくまで、時間はかからなかった。
「お主には感謝してるさね。勝手ばっかり押し付けたさね」
「殊勝だねぇ」
 ふっと左門は笑う。その笑みが、「珍しい」と物語る。
 面映げに、半蔵は頬をかいた。
「たまには言うさね。言わねば伝わらんさ」
「なら、聞こうかな」
「ん?」
「どうするさね」
 半蔵の口調を真似て、問う。
「おに」
 ぽつ、と半蔵は答えた。
「鬼かい」
「鬼さね」
 とん、と右の中の指で膝を打つ。
「あの子を、跡にするのかい」
「それを、決めるさね。
 刀は鬼さね。それでも、人でなければならんさね。あれがそうかそうでないか、ここではっきりさせるさ」
「心配はいらないよ」
「お主の、感想さね」
「綾女さんだよ」
 にこり、と言う。
「なるほど」
 にやり、と頷く。
「それはありがたいさね」
 とん、とまた膝を指で打つ。
「だが」
 とん、ともう一つ。
「己の目で、確かめたい」
 笑みはない。
「そうかい」
「ああ」
「でもあの子は、いやがるだろうね」
 左門はほんの少し、難しげに眉をひそめた。
「こればっかりは仕方ないさね」
 とんとん、と膝を指で打ちながら静かに、半蔵は答える。
「それでもね」
 左門は珍しく、言いつのった。
「あの子は、服部半蔵の役に立てる忍になることを、望んでいるんだよ」
 半蔵の手が、僅かに止まった。
「…知って、いるさね」
 とん、とまた打ち、低く、言った。
「そうさね」
 左門が言う。
「そう、さね」
 半蔵が頷く。
 障子に顔を、向ける。
 近づく気配が二つ。先ほどよりは落ち着いているものの、それでもやはり、二人がどことなく浮き足だっているのは伝わって来る。
「さて」
 よいしょ、と声を上げて立つ。しかし声の割に、軽い動きだ。
「行くさね」
「半蔵」
 脇に置いていた書物を、左門は取る。
 半蔵は首だけ、振り返る。
「いい子だよ」
 もう一度言う。
 半蔵はただ、頬をかいた。
「半蔵様、支度ができました!」
 少年の声が二つ、先を競い合うように、重なって響いた。

「雨・弌」へ
目次に戻ります