雨・弌


 雨が走る。
 つい先ほどまで晴れていたのに、雲が出た、と思うや見る間に天は覆われ、覆われた、と思ったときにはもう、雨は降っていた。
 雨は雲を運んだ風の力も借り、すさまじい勢いで自分達の体を、地に、家々の屋根にたたきつける。
 町ゆく人影は、傘を差しているかどうかに関わらず、雨に追われるように足早に駆けていた。
 その少年もまた、激しい雨の中を走っていた。
 襟元で束ねられた髪も、藍で染めた着物も、すっかり濡れて体に張り付いている。
 体を叩く雨に耐えるように、口を真一文字に結んで走る様は、他の人々とそう変わらないように、見えた。
 ただ、目が違っていた。
 異様に鋭い光が、そこに宿っていた。


 もう一人、様子の違う者がこの雨の中にいた。
 七尺を越す身の丈で、隆々とした体躯の巨漢である。
 その体にはやや小さな青塗りの傘を差し、激しい雨を楽しむように悠然と歩を進めている。
 腰には、五尺はあろうかという大太刀が一振り。
――ん?
 ふと、その足が止まる。
 視線の先には、駆けてくる少年。
 身を打つ雨に立ち向かうように、身を打つ雨など無視するように、走ってくる。
 雨に打たれ、やかましく音を立てる自分の傘を、刹那の間、男は見上げた。


――しつこいな。
 ひたすらに駆けながら少年は、雨に閉ざされた周囲の気配をじっと捕らえ続けていた。
 少年をつけてくる気配が一つ、二つ。
 雨に紛れ、押さえてはいるようであるが、敵意と殺気ははっきりと感じ取れる。
 それらは一定の距離を保ちながらも、ぴったりとついて来る。
――そろそろ…どこかでけりをつけ……?
 思ったその時、視界にその男の姿が、入った。
 腰には朱塗りの大太刀を、頭の上には青地に黄の円を描いた傘を差した巨漢が一人、歩み来る。
 明らかに、こちらを見ている。
 興味深げに、じっと見ている。
――何者……
 気を向ける必要は、なかった。なかったはずだ。
 だが少年は足を止めてしまっていた。


――噛みつきそうだな。
 戸惑いに少しの怯えを混ぜたような表情で、自分を見ている少年に、何故か男はそんな感想を抱いた。
 年は十四か、五か。男より五つ、六つ下ぐらいに見える。なりからすると、豪士のようだ。
 だが、それだけだ。何か変わっているわけではない。
 だが、自分より二回りは小さな少年と向かい合う形になることに、軽い緊張を感じている己に男は気づいていた。


――……違う。
 男は「奴ら」の仲間ではないと少年は判断した。だが、自分にここまで注意を向けて来る理由はわからない。
 しかし今は、迷っているときではない。
 首筋の辺りがぴりぴりとしている。奴らが先ほどまで保っていた距離を、ぐっと縮めたのが、わかる。
 とりあえずの敵ではない者に注意を引かれた隙を、当面の敵に突かれるわけにはいかない。
 そう決めると、少年は、男の脇を駆け抜けようとした、その時。
「おい」
 声が最初だった。
 体を叩く雨の量が減ったことが次で。
 傘を叩く雨の音が近づいていたことはその次で。
 自分が足を再び止めてしまったことに気づいたのは、最後だった。
 だから自分がいつ足を止めたのかは、少年にはわからなかった。


 少年が駆け出そうとしたのが、わかった。
 わかったその時、男は傘を持った右手を真横に伸ばしていた。全く無意識に、全く自然な動きで。
「おい」
 そう声を発したその時、男は自分が少年に向かって傘を差し出したことに気づいた。
 丁度その位置に走り込む形になった少年は、男のその声にはっと顔を上げた。
――……ほう。
 小さく息を洩らす。少年の目には恐れはなく、警戒の色の濃い、鋭い光を宿し、じっと男の様子を伺っている。まるで、獲物を見定める鷹か鷲のごとく。
――さっきまでのは偽り、か。
 そう思いながらも、口から言葉が出る。
「風邪、ひくぞ」
「え?」
 声変わりが始まっているのだろう、掠れた、しかしよく通る声の中には、偽りではない戸惑いが、在った。


「風邪、ひくぞ」
 差しかけられた傘に添えられた言葉が、少年の思考を止めてしまった。
「………」
 傘を見、男を見る。少年より遥かに背が高い男の顔に視線を向けるのは、殆ど真上を見るのと変わらない。
「貸してやる」
 男は身を屈め…と言うよりはしゃがんだ。少年も決して背は低くないのだが、男との差は大きすぎる。
 傘を少年の手に握らせる。強引な渡し方だったが、意外にあっさりと、少年の手は傘の柄を受け入れた。
「……いらない」
 受け入れてしまってから、低く掠れた声で、少年は傘を男に押し返した。
 確かに、そぼ濡れた少年の体にはもう、傘など無駄なようである。
「いいから」
 だが強く、男は言った。
 少年は拒否する理由を探した。
「あんたは」
「もう、そこだ」
 あっさりと、男は少年の見つけた理由を壊した。
 辻を指さす。
「そこの角を曲がって、ほんの半町行った先の道場だ。雨が止んだら、返しに来てくれ」
 少年はまた傘にちらと視線を投げ、男を見た。
「俺は斬紅郎。壬無月斬紅郎だ。お前は?」
 ぐり、と男の大きな眼が、少年を見る。
「……蘇枋」
「蘇枋か。よし。じゃあな」
 ぽんぽん、と二度蘇枋の肩を叩いて言うと、斬紅郎は蘇枋が口を開こうとする前に豪雨の中を駆けていった。
 雨でけぶる視界の中を、男の巨体が遠くなっていく。
 傘を手にしたまま、蘇枋はどこか茫然と、それを見送った。
 渡されるままに傘を受け取ってしまったこと。問われるままに、呼び名に過ぎないとはいえ、名を答えてしまったこと。
 いつもの自分なら、決してしないことである。
 傘を見上げる。
 ざあっ
 風が雨を乗せ、雨が風に乗り、走り、その勢いに足がよろめいた。
 斬紅郎には少し小さく見えた傘は、蘇枋には大きい。
「…………」
 ゆっくりと視線が、動く。
――……………


 雨が、止んだ。
 赤いものが、降った。
 雨雲を払った風に吹かれ、傘が地を転がった。
 青地に描かれた黄の円が、くるくると回る。その上に落ちた鮮やかな赤の斑点もまた、くるくると回りながら、形を崩し、流れ落ちていた。
 かちん
 刀を収め、蘇枋は傘を拾いあげた。それを畳んで小脇に抱えると、できる限り普通に、できる限り足早に路地裏から歩み去る。
 後には、躯が二つ。
 一つは喉を斬りさかれ、もう一つは心臓を突かれている。
 どちらも、一撃。
 雲の切れ間から覗く空の青を映す水溜りを割くかのように、二つの傷からは赤い血が噴き、流れ、広がり続けた。

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