雨・参


 少し休め。そう言われて、蘇枋は構えをといた。
 腕がじんじんと重く痺れている。
 ここ数日の稽古で慣れたのか、初日ほどではない。しかしやはり、三尺もの木刀を振るう、慣れぬ組み打ちは楽ではない。
 楽ではないが、苦痛でもない。辛い修練には慣れている。
 それに……
――それ、に。
 壁に背を預ける。
 斬紅郎の稽古は結構厳しい。人に教えるのは初めてと言っていたが、要領は得ているようだ。甘い点は殆どない。みっちりと相手してくれる。
 それはまことに結構なことだが、困ったことでもある。
――ここまで手間取るとは思わなかったな。
 それでも、この道場の間取りはだいたい掴み、浅葱にその内容は伝えてある。もう、ここでのことはほぼ終わりだ。
――終わり、か……
 何か、引っかかった。
 ひゅうっ、と高く、空が鳴き、蘇枋は視線を上げた。
 蘇枋の組み打ちの相手など、斬紅郎には軽い準備運動程度でしかないのだろう。疲れた様子などかけらもなく、大太刀を振るっている。
 大太刀が振るわれるたびに、ひゅうひゅうと空は悲鳴にも似た音を上げる。
――剛。
 刹那思い、すぐに思い直す。
――柔。いや、剛柔一体…か。
 一撃一撃は確かに力強い。強力なことで知られる薩摩の示現流以上の斬撃だろう。
 しかし、それで終わらない。
 振り切られた刃は、終わった、と思った途端に、つい、と次の斬撃に流れるように、移る。
 一撃は重く、激しく、流れは軽やかで淀みなく続く。
 まるで山を走る激流の如く。
 それは斬紅郎の尋常でない膂力と、卓越した技が生み出す、剣舞。
「剣舞…か」
 何気なく頭に浮かんだ言葉を、声にしてみる。
 胸の中で、もやもやと何かが渦巻いている。
 むしろ小気味いいまでに見事な剣さばきであるというのに、そして実際、蘇枋はそれに魅入られたように見つめているというのに、その心は漣揺れ、苛立っていた。
「…………っ」
 木刀を取る。
――何がこんなに……
 構える。
 そこへ、影が落ちた。
「どうした?」
 続いて頭の上から声が降る。
 木刀を下ろし、蘇枋は声を見上げた。
 斬紅郎が、そこにいた。汗を拭いながら、蘇枋を見下ろしている。
「別に」
「苛立ち紛れに剣を振るうのはよくないぞ」
「…わかってる、けど……」
 言い訳のつもりではなかった。自分が苛立っている理由がわからないのが、もどかしいのだと、本当は言いたかった。
 それなのに、口から出た言葉はなぜか、言い訳がましくなっていた。
「けど、じゃない」
 ぽん、と斬紅郎は自分の大きな手を、蘇枋の頭の上に置いた。
「出かけるか」
「出かけるって、どこへ。稽古は?」
 汗ばんだ斬紅郎の熱く大きな手の感触は、気持ちいいものではなかったが、蘇枋はそれをどける気にはならなかった。
「今の様子じゃ、やっても身にならん。
 場所はついて来ればわかる」
 妙に楽しげな様子で、斬紅郎は答えた。


 斬紅郎が蘇枋を連れていったのは、とある茶店だった。
 やはり町に人影は少なく、この店もよくも開いているものだと思うほどである。
「昼間から飲み屋には連れてはいけないからなぁ」
 言って、斬紅郎は店の娘に団子と茶を頼んだ。
「斬紅郎、なら、夜なら連れて行ってくれるのか??」
 いつからか、斬紅郎の名を呼ぶとき、「殿」が蘇枋の言葉から消えていた。だが本人は意識してそうしているようではない。自然に、そう呼ぶのが当然なように、言う。
「さぁて、な」
 はぐらかした答えに、蘇枋の顔につまらなさそうな表情が浮かぶ。
 表には出さずに、ただ、心の中だけで斬紅郎は笑い、言った。
「稽古はきついか」
「少し。
 あんな大きな刀を振り回す剣なんて、初めてだ」
「そうだろうな」
 無心流で用いられる刀は大きい。普通に使われるものでも三尺はあり、四尺近いものを使う者も少なくはない。それでも、斬紅郎の振るう大太刀よりは、ずっと小さいが。
「いままでどんな流派を学んだ?」
 頷きながら、精一杯さりげなく、斬紅郎は問うた。
 その胸を、昨夜叔父が言った言葉がよぎる。信じたくはないが、一概に否定できないものがあった。
 叔父への疑念、蘇枋が始めに、そして時折見せた、鋭い視線。それらが、斬紅郎に否定させなかった。
「えーっと……示現だろ、新陰に一刀、富田に神道、林崎と、直心影、東軍に無外…あと、色々。剣以外もやった。宝蔵院の槍術とか……。おい」
 斬紅郎の様子に不審を見せることなく、指折り数えながら答えていた蘇枋の声が、怪訝なものに変わる。
「聞いてるのか」
「ん、ああ。聞いていた。
 その年でよくもそれだけやったな」
 考え込んでいた斬紅郎は、少し慌てて言う。その顔には感心と呆れと、秘かな苦悩が入り混じって、ある。
「どれもかじっただけだよ。ちゃんと身についたものなんてありやしない」
 幸い、蘇枋に気づいた様子はなかった。
「いや、飲み込みの早さは、修練の成果だろうさ」
 実際、基本の型、動きを蘇枋が覚え、ものにしたのは、斬紅郎が驚くほどに早かった。
「お前、ほんとに剣術が好きなんだな」
「……うん」
 こく、と頷く。
 しかしその視線がつと、斬紅郎からそれた。
 向いたのは、南。
 日差しが目に入ったのか、目が細くなり、しかめるように顔が歪んだ。
「あ、来た来た」
 歪みは、笑みを作ろうとしたためだったのだろうか。
 その目が見ていたのは、団子の入った皿と、茶を乗せた盆を持った娘だった。
「へへっ」
 皿がおかれるより早く団子の串を一つ取り、頬張る。
「うまいか」
 今度ははっきりと呆れながらも、その無邪気な様に、斬紅郎は破顔した。
「うん」
 答えつつ、もう次の串に手を伸ばしている。
「お前、親父さんと兄さんとで旅をしてるって、言ってたよな」
 自分は団子には手を出さず、湯呑を―斬紅郎が持つと、女童のおもちゃの様に見える―手にし、言った。
 「長くは学べない」と言った理由を問うた時、少年はそう答えたのだ。幼い頃からずっと、三人で流浪の旅を続けていると。
「ふん」
 もごもごと口を動かしながら、頷く。
「なんの、旅だ」
「………?」
 ごくん、と口の中のものを飲み込み、眉を潜め、斬紅郎を見やる。
「いや、ずっと旅してるって、ちょっと気になってな」
「…剣術修行。父さん、の。流派開くんだってさ。俺の剣術好きも、父さん、ゆずり」
 斬紅郎をじっ、と見ながら蘇枋は答えた。
 あの雨の日の少年の表情に、近くなっている。
「そうか。そりゃ、大変だな。
 すまんな、いきなり聞いて」
 軽く斬紅郎は話を打ち切った。
「別に……これもらうよ」
 最後の団子を、取る。食べる。
 うまそうに。嬉しそうに。
「もう一皿、いるか」
「うんっ」
 力強く、勢いよく、頷く。
「お前、団子好きか」
「ああ。うまいし、食べやすいし」
 にこにこと、言う。
「そうそう、俺も聞きたいんだけど」
 団子を頼んだ斬紅郎に、尋ねる。
「斬紅郎の流派ってなんなんだ? 無心流とは違うって言ってたけど」
 問うたその声の奥には、微かに張りつめたものがあった。
「うん? ああ、俺のは『無限流』という」
「無限、流」
 少し、真剣な表情で繰り返す。
 しかしその手は、最後の一つを口に押し込んでいる。
「無心流とはどういう関係なんだ」
「無心流の本だ。無限流は誰もが学べるものじゃない」
「それはわかる……気がする」
 長椅子に立てかけられた、斬紅郎の大太刀を見る。
 その鍔は、長椅子に座った蘇枋の目線よりも高い位置にある。
「俺に教えてるのも、無心流の方か」
「ああ。無限流はお前にも無理だ。こいつは……」
 ふと、言葉を切る。
 大太刀に目を向ける。
 長い時を経ていると見えるそれは、何とも言えぬ存在感を放っているように、蘇枋には思えた。
「壬無月の剣、だからな」
 どこかとってつけたように言って、斬紅郎は視線を蘇枋に戻し、つられるように蘇枋も戻した。
「それはそれでいいと俺は思うがな、そうは思わない者もいた。そんな奴らが学び易いかたちに直したのが無心流だ。
 親子みたいなものだな。その縁で俺は時々こっちに顔を出しているんだが」
「時々?」
「二、三ヶ月に一回ぐらいだな」
「そう、か」
 呟き、茶を飲む。
――……む?
 斬紅郎は、少年が安堵したと思った。
 それも己自身も気づかずに、安堵したと思った。
「お前……」
「蘇枋!」
 突如響いた呼び声に、斬紅郎の言葉は立消えた。
「あ」
 少年が立ち上がり、頭を巡らす。
 視線を追えば、蘇枋と同じぐらいの年の少年が、駆け寄って来る。
「気成兄ぃっ」
 困ったように、そして、どこか怒ったように、蘇枋は言った。
「親父様が呼んでいる」
 それに構う風なく言い、しかし、と、斬紅郎に、気成と呼ばれた少年は顔を向けた。
「壬無月斬紅郎殿、ですね」
「ああ。お前さんは?」
「気成と申します。弟が世話になっております」
 丁寧な言葉使いと共に、頭を下げる。
 似ていない、と斬紅郎は思った。
 浮かべる表情によって、受ける印象が多少変わるが、若鷹を思わせる顔立ちの蘇枋に対して、この少年は人懐こい犬を思い起こさせる顔だ。
 だが、顔はいい。似ていない兄弟など幾らでもいる。
「いや……」
 礼を返す。
 なんとはなしの苦手意識と気味の悪さをこの少年から受ける。
「それでは」
 気成に促され、蘇枋が立ち上がる。
「また明日な」
「……うん……」
 頷くまで、暫しの間があった。物言いたげに、口が開きかける。
「では」
 しかしそれより早く気成がまた言い、蘇枋を連れ、歩み去った。
 それを視線の隅に、斬紅郎は残っている団子を取り、食った。
 味は、あまり、わからなかった。
――示現と、新陰、か……
 溜息をつきたい気分だった。
 だが、息を吐き出す気にもなれなかった。
 叔父の懸念が当たった。
 裏を返せば、斬紅郎の疑念を最悪の形で裏付けた。
――……………っ!
 やるせない憤りと悔しさに、巨躯が震える。
 その時、恐怖と驚愕の悲鳴が、響きわたった。

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