また人が死んだ。 今度は一人だ。 だがやはり、何者かに殺められている。 その死んだ者もまた、壬無川藤五郎の客、だった。 そして、また。 雨が降っていた。 いつかのように激しいものではなく、しとしとと長く後を引いて降る雨だった。 町にはいつかのように駆けゆく者どころか、人影さえない。 続いた人死に、姿の見えぬ下手人、そして雨が、人々を少なくとも外よりは安全と思われる家の中に閉じ込めてしまった。 しかし歩む者、一人。 青地に黄の円を描いた、大きな傘を差し、五尺もの大太刀を佩いた巨漢、壬無月斬紅郎。 旅姿だった。 昨夜、叔父、藤五郎に強く言われ、道場を出たのだ。 訳も言わず、ただ、町から出ろと、二度と無心流の道場には近づくなと、それだけを叔父は何度も何度も繰り返した。 どうにも抗し難い雰囲気であり、とりつくしまのない態度に諦め、とりあえず道場を出た。 だが、おとなしく出ていくつもりはない。時間をおき、叔父の頭が冷えた頃に戻って、訳を問いただすつもりだった。 それにもうすぐ、蘇枋の来る頃だ。 訊きたいことが一つ。 知りたいことが、一つ。 足を止める。 「戻るか」 己を励ますように言う。 振り返る。 紅い尾を引く、闇色の影が、その視界の中を、走った。 雨など知らぬように、一個の生き物のように、紅い尾は、鮮やかに揺れる。 それを追い、走る影が、雨の中にいくつも見えた。 雨音。 青い傘を打ち、弾ける。 斬紅郎は、走った。 投げ捨てられた傘が、くるくると地で、回った。 蘇枋は走った。 できる限り『奴ら』の目に触れるように、紅い巻布を翻し、雨の町を走り回った。 走る内に、追って来る気配が現れ、数を増やしていくのがわかる。 ――来い。もっと来い! 目に触れるように、しかし捉えられぬように、巧妙に、走る。 一人でも多く、引きつける。 それが役目。 一人でも多く、一時でも長く引きつける。 そして ――討つ。 追って来る気配はざっと十といくつか。同種の者はしかし、ほんの数人…半分もいない。 ――これで全部だと…いいんだけどな…… 都合のいい『場所』を頭の中で探す。 その片隅で、『浅葱』と『気成』を微かに案じ……走る。 やがて。 町外れの小さな寺の、門をくぐる。 境内の最奥までくると、後ろ腰に佩いた刀の柄に手を掛け、ぶん、と体を回す。 左足を軸に反転。全く動きを止めることなく、これまでとは逆の方に、走る。 追手の動揺する空気が、雨の向こうからでも小気味いいほどに伝わって来る。 く…んっ! 忍刀が、雨を弾き、水闇の中、疾った。 追った影は、すぐに見失ってしまった。 だが、斬紅郎は走り続けた。 何かに呼ばれるように、迷いなく、走った。 走り続け、辿り着いたのは、町の東の端に位置する小さな寺だった。 「ふうううううううううううううっ」 長く、大きく、息を吐き出す。 右腕が震えている。 ――……恐れるか。 しかし問いながらもわかっている。恐れているのではないのだと。 心は、奇妙なほどに、静かだ。 あれほど走ったのに、体も、静かだ。呼吸も、鼓動も、乱れていない。 ただ、右腕だけが微かに震える。 ゆっくりと、斬紅郎は、寺の門をくぐった。 しゅんっ! 影が疾るのが、水の舞う視界に飛び込んだ。 それと同時に赤いものが噴き上がり、地に影が倒れ伏す。 既に地にはいくつもの躯が倒れ、赤いものが流れ、広がっていた。 ――これは、なんだ? 闇色の影が紅い尾を引いて走り、刃が閃く度に、赤い雫が舞う。影が倒れる。 まるで現実味がない。簡単に、あっけなく、事が起きていく。 人が死んでいく。 死んでいく。まるで芝居か何かの如く。 声も上げず、そうしろと命じられてでもいるように、一人、また一人、死んでいく。 やがて、立つ者はただ一人になった。 紅の巻布を背に流した、闇色の影。 その手にしたやや短い、まっすぐの刀の先から、血の雫がぽたりぽたりと、落ちていた。 かちゃり 鍔鳴りの音に、はっと蘇枋は顔を向けた。 大きな影が、一つ。 「斬紅郎…?」 言葉が、出た。 だが、届いているはずなのに、斬紅郎は動かない。 左手で大太刀を支え、右手を柄に掛け、微動だにしない。 夢を見ているような、鋭く凝視しているような、不思議な目をしている。 その目が何を見ているのか、蘇枋なのか、倒れた影なのか、それとも、雨なのか、わからない。 かちゃり また、聞こえた。 蘇枋は足を開き、身を低くし、忍刀を握った手を、後ろに回し、構えた。 全感覚が再び研ぎ澄まされる。 さあぁ……… 雨音が不意に、大きくなったように思われた。 蘇枋は、飛んだ。 ぼぎぃっん! 鈍い音が、雨音を打つ。 影が、落ちた。 首を異様な角度に曲げたそれは、動かなかった。 「蘇枋……か」 声に、振り返る。 夢から覚めたような表情で、斬紅郎が蘇枋を見ていた。 刀からはもう、手は離れている。 「…………ああ」 頷いたのは何故か、蘇枋にはわからなかった。 「驚かないのか」 地に転がったいくつもの躯に、目を走らせる。 「わかってしまったからな」 「何を」 「新陰に、示現。 それぞれ、幕府と薩摩の御止め流だ。ただの豪士が学べるものじゃない」 それに叔父御がな、と心の中で付け加える。 「ああ、そうだったな」 斬紅郎に言ったことを、思い返す。 ――うかつ……だったな。 何も考えていなかった自分を、思い出す。 斬紅郎に問われるままに、答えていた。『忍』としての意識は残っていた。だが、あの時の自分は…… 「お前、何者なんだ」 「言えない」 「そうか」 斬紅郎はそれきり、口を閉ざす。 雨が、冷たくなった。 勢いを増したわけでなく、風が吹いたわけでもない。だが、確かに雨は、冷たいものに変わった。 「町を、出るのか」 代わりのように、蘇枋は口を開いた。 「……ああ、そうしなければならんらしい」 「なら早く行け。戻って来るな、『無心流』にはもう、関わるな」 語調が早く、厳しくなる。必死になっている自分を、蘇枋は感じた。 「訳を、聞かせろ」 荒い口調の蘇枋とは逆に、低く重い、静かな声で斬紅郎は問いを返した。 「それは……」 心が揺れる。 言ってはならない。訳を話すことは、己の素性も含めて、全てを話すことになる。それは、掟が許さない。「してはならない」ことだ。 だが、何も言わずに、このままにすることは……することは…… ――したくない。 はっきりと浮かんだ否定、己の意志に、蘇枋は惑う。 なぜそう思うのか、訳がわからない。 忍としての掟と己の心が、反発する。まだ若い蘇枋には、その理由も、この心の乱れをどう扱ったらいいのかも、わかるはずもなかった。 地を蹴る。 斬紅郎の脇を、駆け抜ける。逃げる。 とっさに選んでしまった、答えだった。 「津軽」 それでも駆け抜けざまに、一言絞り出す。せめぎあう二つの中から、必死の思いで出した、言葉だった。 「……ん?」 「楽し…かった……」 もう、一言。届くかどうかわからなかったが、言葉は出ていた。先の言葉よりはずっと簡単に。 そして知る。なぜ、答えたのか、頷いたのか、言ったのか。 だが、足は止められず、今度はとどめる言葉もなく、走った。逃げた。 手には傘がなかった。 とどめる言葉は出なかった。 思いつかなかった。 ただ、遠ざかる、紅い尾を引く闇色の影を見送るだけで。 しかし、胸には重苦しい悔恨があった。 何か言ってやるべきだったのではないのかと、そう思えてならない。 闇色の装束を纏い、紅い巻布を首に巻いた影にではない。あの雨の日に出会った、毎日道場に通ってきた、団子が好きだと言った、少年に、何か言ってやるべきだったと、思う。 だが何も言えなかった。奇妙なまでに静かだった心は、何も言葉を形作らなかった。 「楽しかった、か……」 その言葉が、せめてもの慰めだった。 ふと、右手を見る。 いつの間にか、なぜか、柄に手を掛けていた右手。震えは、今はない。 握りしめると、きびすを返す。 そのまま、斬紅郎は町から去った。 二度と、この町を訪れることは、なかった。 後に斬紅郎は、旅人の噂話で聞いた。 御禁制の津軽(阿片)の密売を、無心流の道場が行っていたことを。 人の出入りが多く、また、余所者が訪れることが珍しくない場所である剣術の道場は、いい舞台だったのだろう。 師範の壬無川藤五郎始め、高弟達が捉えられたという。おそらく、厳罰に処せられるだろう。 しかし無心流の背後には某藩の奉行が、さらにその後ろには何かがいたらしい。詳細は不明だが、幕府と敵対するものである、とか。 斬紅郎は、一つ大きく、溜息をついた。 |