椿・弌


 ぴぃ……ひょろ…ろろ…ろ……
 空の高みで、鳶が澄んだ声を上げながら、輪を描く。
 その声の下で、蘇枋は木の幹に背を預け、苦しげな荒い呼吸を繰り返していた。
 顔にはびっしりと細かな汗が浮かび、体に負ったいくつもの傷からは、赤い血が地面に滴り落ちる。傷の中にはかなりの深手もある。
――……もう、近くには、いない…か……
 ともすれば薄れそうになる意識を奮い起こし、蘇枋はさらに辺りの気配を探る。
 近くには誰もいない、ように思う。聞こえるのはただ、鳶が遠く高く鳴く声だけだ。
――浅葱様…気成…、無事、かな……
 分かれて逃げた二人を気にかけながら、ずるずると座り込む。鉄のものとも似た赤いにおいが鼻を差し、それが気にかかった。普段なら殆ど気にかけないにおいが、何故か強く気になった。
 気配をいくら抑えても、これで奴らに気づかれてしまうかもしれない。そんな「理由」が後から浮かぶ。
 だが動けない。流れる血と共に、体から力が抜けていく。
 ぴぃ…ろ……ひょろ…ひょろろ……
 さくっ
――…!
 鳶の鳴く声の中に聞こえた、朽ち葉を踏みしめた足音に、顔を上げる。
 誰か、来る。
――思ったより、ひどい、な。
 ここまで何も気づけなかった自分に、傷の具合いの悪さを思い知る。
――死ぬ……のか。
 ぼんやりとそんなことを考える。
 草刈は決してその獲物を見逃さない。見つかれば、今の状態なら、必ず殺される。しかし不思議と恐怖はなかった。来るべきものが来た、そんな思いしかない。
 足音と気配はゆっくりと近づいて来る。
――一人……?
 草刈が一人でいるとは思えないが、感じられるのは一人だけだ。
 右手からまだ落ちてなかった刀を強く、精一杯強く握りしめる。しかし立ち上がるだけの力はない。
――殺れないことは…ない。
 一人なら、この腕さえ動けば、一撃、いれられる。迫る『死』を認めても、『忍である』という意識が、ただ死ぬことを許さなかった。
 目を閉じ、近づく気配に意識を集中する。
――十歩、九歩、八、七……
 腕が、すうっ、と上がる。
 もうあと僅か、ほんの二歩、気配が近づけば…とる。
「あっ」
 耳に飛び込んだ驚きの声は、女のもの。
――女?
 あまりにも不用意な、忍のものとは思えぬその声に、思わず開いた蘇枋の目に飛び込んだのは、黒。
 声の主の目の色。
 黒曜石のように黒い、澄んだ瞳が、驚きと戸惑い…そして恐れに揺れている。
――追手では、ない。
 確信と共に安堵感が沸き起こり、そして、ぷつん、と何かが少年の中で切れた。
 ふうっ、と視界が歪む。
 上がっていた腕が、落ちる。
 傷の痛みが強く感じられ、意識が遠ざかる。
 ぴぃ…ろろ……ろ……………
 鳶の声が、遠くに聞こえた。
「え、え、え、あの……?」
 追いかけるように戸惑いの声が聞こえ、そして。
――…なんだ……におい……?
 赤い匂いの向こうから流れる、やさしく懐かしい匂いを微かに、確かに感じながら、蘇枋は気を失った。

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