椿・弐


 初めて赤の匂いを意識したのはいつだったか、もう覚えていない。
 十三の時、異例の早さで成人を認められ、外働きに出るようになった。それ以来、赤い匂いは身近なものへとなり、そしていつの間にか、その匂いを嗅ぐこと自体に何かを感じるということはなくなっていた。
 そのせいだろうか、『その』においはとても懐かしく、とても心地よいように、思えた。
 よく知っていたはずの、身近な、懐かしい、におい。

――『その』、におい?

 蘇枋は、目覚めつつある己に気が付いた。
 ほのかなにおいが、眠りからうつつへと意識を導く。
 いいにおいだと感じた。やさしく、どこかあたたかい、久しく忘れていた世界のにおいだ。
――目を覚ましたくない。
 まだ眠りの世界にある頭でそう、思う。
 目を覚ませば、このにおいはどこかへ消えてしまう。
 現実に消えなくても、己の内からは必ず。忍に「そんなもの」は不用だから、だからこそ目を覚まさなければ…もう少しの間だけでも…
 しかしそんな葛藤とはおかまいなしに、意識は目覚めに向かって浮上していく。
 諦めの気持ちが沸き起こる。諦めたまま、蘇枋は目覚める自分を眺めていた。
「……う……」
 小さく声を上げ、目をうっすらと開く。
 ぼんやりとした視界に、人影がある。華奢とまではいかないが、ほっそりとした、小柄な…髪は長い…
「気がつきました?」
……女…いや、少女の声だ。どこかで聞いた覚えが、ある……声、少女……
――……!?
 がば、と身を起こす。
「ぐっ!」
 全身に痛みが走り、蘇枋は体を海老のように丸めてうめいた。
「大丈夫ですか?」
 心配そうな声が耳に流れ込む。
「無理に動いては駄目ですよ」
 痛みに顔を歪めつつも、蘇枋は声の主の方に目を向けた。
 深い黒が、そこにあった。
 「透き通った」。
 そう表現するのが一番ぴったりくる黒だった。
 少女の目の色。
 覚えのある黒い目の少女が、蘇枋の顔をのぞき込んでいる。
 年は蘇枋より少し下だろうか。軽い癖のある、茶色がかった髪のせいで見目はよくないが、やさしげな、なんとなくほっとする顔立ちの少女だ。
「傷の具合いはどうですか」
「えっ?」
「傷、どうですか?」
「あ、ああ……」
 少女の言葉に、蘇枋は傷を受けた場所に軽く触れてみた。
 そこで初めて、傷全てに丁寧に手当がしてあることに、蘇枋は気づいた。
 そのおかげか、軽い熱と痛みを感じるが、傷はかなり回復していると思った。
「…そんなには、痛まない」
 視線を部屋の中に走らせながら答える。どうやらここは、どこかの民家の一部屋のようだ。見覚えはない。
「よかった。
 お水、飲みますか」
 にっこりと笑んで、少女は水の入った湯呑を差しだした。
「……………」
 素直に受け取り、口元に運ぶ。冷たい水が喉を流れ落ち、体を潤していく。それが何とも心地よい。
――……あ。
 飲んでしまってから、すっかり飲み干してしまってから、気づく。
 何の疑いも警戒もなかった自分に。
――俺……?
 困惑して、湯呑を見つめる。
「包帯外しますよ。薬草変えなきゃ」
 その様子に気づいた風なく、少女は蘇枋にもろ肌脱がせると、その身に巻かれた包帯を外し始めた。
「……俺は、何故…?」
 されるに任せながら、蘇枋は問うた。
 ここがどこで、自分がなぜこんなところにいるのか、理解しなければならない。辛うじて今わかっているのは、この少女が追手では、敵ではないこと、そして、自分が生きていることだけだ。
「憶えてないんですか?」
 少女は小首をかしげた。髪が、ふわ、と揺れる。
――……ん?
 また、あのにおいを感じた。
 ずっと昔には確かに知っていた、懐かしいにおい。
「『蘇枋』さん?」
「ん……ああ、ええと、なんだったっけ?」
 軽く頭を振る。
「二日前に、ひどい怪我で倒れたんですよ」
「あ、ああ……」
 ふうっと、記憶が戻る。
 お役目を終えたその直後、これで終わったと気を抜きかけたその時に、草刈達に見つかり、追われて…二人と分かれて逃げて、傷を負って……そして、この黒い目の少女と出会った。
 そこで記憶はふっつりと途切れている。
 それが二日前だという。
――……二日、前。
 なにか違和感がある。
「二日……」
 呟いて、気づく。
「二日!?」
 ぱっと顔を少女に向ける。傷に痛みが走る。
「…つっ」
「急に動いては駄目。傷はまだ治りきってないんですよ」
「本当に、二日も経ってしまったのか?」
 気遣う娘に、しかし構わず蘇枋は強く確かめる。
「ええ。ずっと眠ってました」
 乾き、熱を持った薬草を剥し、新しいものを蘇枋の傷に張りながら少女は答えた。
「どうかしましたか?」
「いや…」
――二日もの間、草刈に見つからなかったのか? 諦めたか、それとも、俺の運がよかったのか? 
それに浅葱様と気成は…無事かな…
 考え込んでしまった蘇枋に、また少女は首をかしげたが、黙って包帯を巻き直した。
「さあ、横になってください」
 少女の声も表情も、深く蘇枋を案じている。
 だがその声は、届いていなかった。
――無事だろうけど…
 二人がそう簡単に死ぬわけがない。草刈は確かに強敵だが、気成を斬ることは難しく、また浅葱が草刈などにどうこうされるわけがない。あの人数からして、あの時はかなりの数が自分を追ってきたようであるし…
「……あの?」
――どうするか。
 二日もの間寝ていた分だけ、確かに傷の具合いはよくなっている。動けないことはないだろう。
「あの!」
「!」
 大きな声に、蘇枋はようやく少女に顔を向けた。
「横になってください。もう少し休まないと」
「いや、俺は」
 首を振り、立ち上がる。
 動ける。傷は痛みを訴えるが、二日前よりはよほどまともに動ける。
「俺のものは?」
 少女は無言で立ち上がった。
 ぽんっ!
「!」
 目の前でいきなり手を打たれ、蘇枋はかっきり二度、瞬きする。
「目が覚めましたか、『蘇枋』さん?」
 にっこり、と笑む。
「そんな体で動くのは無茶です」
「だが、しかし……」
 言葉が続かなくなっていた。頭にあることが言葉に変わらない。
 穏やかにただ笑んでいる少女に、なぜか気押されている。
「もう少し、もうしばらく、体を休めましょう」
 やはり笑みを浮かべたまま、蘇枋の目を見つめ、言う。しかしその黒い目の奥では泣き出しそうなほどに真摯な色が揺れていたことに、蘇枋は気づけなかった。
「もう、少し……」
 魅入られたように少女の黒い瞳を見つめ、ただそう繰り返すだけで。
 行け、と頭の片隅で『忍』の己が命じている。だが体は動かない。
 動けないのは、『におい』のせいかもしれない。
 懐かしい、何故そう思うのかわからないにおいが、『忍』の思い通りにさせない。
「いま動くのは無理です。だから、もう少し…せめて、一日、体を休めてくださいな」
 聞き分けのない子に言い聞かせるように優しく、しかしその実秘かに必死に、少女はまた、言う。
「……わかった」
 それに押し切られるように、蘇枋は頷いていた。
 頷いた自分に気づいたのは、頷いた後、だった。

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