椿・参


 鋭いものが風を切る音。
 その音が走るたびに、何かがぽとぽとと落ちる別の音が、微かにするような気がする。
 床の中で、いつの間にかうつらうつらとしていた蘇枋は、それを聞くとはなしに聞いていた。
――何だろう……
 うつつと夢の間で、ぼんやりと考える。
 よく知っている音だ。
 耳慣れた音だ。
 ひゅん。……ひゅん。
――これ、は……そうだ。
 緊張に心を引き締め、目を開く。
 ゆっくりともう一度目を閉じる。
 耳を澄ます。
――間違いない。
 蘇枋は起き上がり、静かに細く、障子戸を開いた。
 ひゅんっ!
 鋭く速い音が、耳に飛び込む。
 きらめく、銀の軌跡。
 ……ぽとぽとり。
 遅れて、赤いものが二つ三つ、三つ四つ、落ちるのが見えた。
 思った通り、剣を振るう音だ。
 その剣を振るっていたのは、一人の巨漢だ。
 七尺は軽く越えているだろう長身、岩のような巨躯。その巨漢が、五尺近くはあると見える大太刀を軽々と振るっている。
 蘇枋は男を知っていた。
――斬紅郎……壬無月、斬紅郎。
 激しい雨が降っていたあの日、見知らぬ他人だった自分に傘を貸してくれた。剣を教えてもらった。見事、と言ってよい剣の技を持っていた。
 「よい」男だった。楽しかった。
――なんで、あいつが?
 ぱあっ、とまた、赤いものが、斬紅郎の後ろにある赤い壁から、舞い、落ちる。
――椿、か。
 まさしくそれは、葉が隠れるほどいっぱいに赤い花をつけた、椿の垣だった。
 垣の向こうの景色は、山中のものだ。どうやらここは、山中の一軒家、といったところのようである。
 ひょうっ!
 大太刀が振るわれるたび風が唸りを上げる。
 ぽとぽとっ
 渦巻く風が、赤い花を落とす。
 力強い斬紅郎の剣技は潔く、迷いない。
 あの時と全く変わらず。
――…………
 しかし同時に苛立ちを、斬紅郎の剣技を見つめる己の中に蘇枋は見た。何かが不満で、何かが許せない。
 何かは、わからないのだけれども。
 それもまた、あの時と変わらない。
 変わらないが、心地よさも、苛立ちも、舞う椿の赤のせいか、あの時より鮮やかに強く、意識していた。
「おうっ!」
 声と共に、斬紅郎は上段から大太刀を振り下ろす。
 地に落ちた花が、小さく、しかし一斉に、ぱあっ、と宙に舞った。
「……ふぅぅぅっ」
 振り下ろした姿勢のまま、長く息を吐く。
 吐き終わってもなおしばらく、その姿勢を崩さない。
 し……んと、空が鎮まっていく。
 周囲の全てが動きを止めて行くような錯覚に、蘇枋は捕らわれた。
 と。
 斬紅郎が、顔を上げた。
「よう」
 蘇枋の目を見て、に、と笑んだ。
「……よう」
 一瞬遅れて、しかし反射的に、蘇枋は答えた。


「声変わり、終わったんだな」
 縁に腰を下ろし、蘇枋を見やった斬紅郎が、一番に言ったのは、それだった。
「ああ」
 姿が見えるように障子を開けたものの、縁には出ず、その場で座って蘇枋は頷いた。
「こっちへ来いよ」
「ここがいい」
 しょうがないな、と言うように口元を軽く歪めると、斬紅郎は蘇枋の方に向き直った。
「傷はどうだ」
「大分、楽になった」
「そうか」
――まあ、当然と言えば当然だが…な。
 口の中だけで呟き、斬紅郎は頷く。
 蘇枋を見る。声変わりが終わっただけではなく、背が伸びた。ぐん、と大きくなっている。体格もそれに合わせて、前よりもよくなった。
「だけど、何で斬紅郎がここにいるんだ?」
 不思議そうに、蘇枋は問うた。
「自分の家だからだが?」
 少しいたずらげに、首を曲げる。
 表情も変わったと思う。心を抑えたものではなく、明るさを被ったものでもない。己の素直な感情が出ていると思う。あの頃、時折覗かせていた表情が、今は当り前のように出ている。
「え? …ああ、そうだな。そうだよな」
 予想もしていなかった、しかし落ち着いて考えれば当然の答えに、蘇枋は驚きと納得を混じらせた表情を浮かべた。
 その様子に浮かびそうになった笑みを巧妙に言葉の中に隠しつつ、斬紅郎は言った。
「楓がお前を見つけたときには、驚いたんだぞ。もうだめかと思ったが…運のいい奴だ」
 その中の一つの名前が、蘇枋の気を引いた。
「楓?」
「妹だ。会っただろう? さっきお前が目を覚ましたと言ってたんだが」
「さっき…さっきって、あの子、か?」
 黒い目のやさしげな面立ちが、蘇枋の心を掠める。
「たぶん、そうだろうな」
 大真面目な表情を斬紅郎は作る。
「その子が、いもうと? 斬紅郎の?」
 思わずまじまじと、蘇枋は斬紅郎を頭のてっぺんから足の先まで、見た。
 似ていない。
 似ているかどうか考えること自体が、そもそも間違っている。
「嘘だろ…」
「どういう意味だ、それは」
「言葉通りのつもり、だけど」
 なおもまじまじと見る。やはり斬紅郎の中から、あの少女の面影は拾えない。
「……言われ慣れてるがな」
 蓬髪をかきあげ、斬紅郎は苦笑して見せる。
「だが、妹は妹だ」
「へぇ……」
 蘇枋はまだどこか納得のいかない面もちで、斬紅郎を見ながら、息を漏らすように言葉を発した。
「何があった」
 しかし斬紅郎がそう問うた途端に、変わった。
「聞くな」
 早口に、強く言う。緩んでいた気が、ぴん、と張る。
――やっぱり、行こう。
 同時に思う。まだ終わったわけではない。何が起きてもおかしくない。そのことに、斬紅郎と楓という名のあの少女を巻き込んではいけない。
――巻き込みたくない。
 それは、意志。
「なら、聞かん。だがな」
 ずい、と近づく。
 そして、すう、と手を蘇枋の肩に乗せた。
 まるで蘇枋の心を読み、動きを封じるかの如く。
「すぐに出て行く、とは、言うな」
「…………」
「心配するな。ここは、お前が気を失ったところから半日は離れている。もう一日、二日は大丈夫だろうさ。
 だから、いま少し、休め」
「……なぜだ」
「お前、その怪我で動く気か」
「そうじゃなくて、なぜ、俺に構う」
 ふう、と困ったように斬紅郎は息を吐くと、蘇枋の肩に置いた手を、その頭に移した。
 その手は変わらず大きく、変わらずごつごつとしていて、変わらず熱く、変わらず、気持ちのいいものではなかった。
 だが、変わらず、その手をどける気にはならない。
「怪我人を放っておけないのは、当り前だろう?
 それにお前は知らない奴じゃない。構うのは当然だ」
「だけど、なら……」
 斬紅郎が自分を構うのと同じ理由で、自分はここにいてはいけないはずだ。それに、『奴ら』が諦めていないのならば、半日程度の距離など意味をなさない。
 そう言おうとした、その時。
「兄上、蘇枋さん、起きたの?」
 その声に、それは果たされなかった。
「ん、ああ、まあ、な」
 慌てて手を引っ込めた斬紅郎の顔に、気まずそうな表情が浮かんだ。
「……兄上?」
 とがめるような響きが、声に乗った。
 蘇枋はそっと立ち上がる。
 ぱたぱたと、足音が近づく。
「蘇枋さん?」
 少女が部屋を覗いたときには、蘇枋は床の中に戻っていた。
 身を起こした状態で、少し曖昧な頷きを返す。
「起きてて大丈夫ですか? 兄上が邪魔したんじゃないですか?」
「おい、楓」
 抗議の声を上げる斬紅郎は、きれいに無視された。
「いや、そんなことはない、よ」
 なにやら斬紅郎に悪いような気がしつつ、首を振る。
「それならいいんですけど」
 言いながら、部屋に入って来る。その手には、土瓶と湯呑がある。
 それを蘇枋の側に置くと、「ちょっと待っててくださいね」と言って、足早に部屋を出ていった。
「助かった」
 それを横目で見ながら、斬紅郎は拝むように片手を軽く上げた。
「別に、そんなつもりじゃなかったんだが……」
――ただ……
 思いかけて、ふと、考える。
――『ただ』、なんだ?
 悩むこと、暫し。
 その鼻を香ばしい匂いがかすめた。
「ん?」
「おまたせしました」
 はずむ声と共に、匂いが強くなる。
 楓が戻ってきたのである。
 今度はその手には、団子を盛った皿があった。
 ようやく、蘇枋は自分が空腹であることに気づいた。


「どーぞ」
 勧められるままに一つ、取る。
 ぱく。
「……うまい」
 ぽろ、と言葉が落ちた。
「よかったぁ」
 少し不安げに見ていた楓が、微笑む。
「………」
 無言で、二つ目を取る。なんとなく、顔が熱い気がする。
 しかし空腹であるということを差し引いても、十分すぎるほどにそれはうまかった。
 さっくりとした口当りで、かじると、口の中に胡麻の風味が一杯に広がってくる。たぶん、臼で引くか何かして、生地の中に混ぜてしまっているのだろう。
 だが、そんな理屈はともかく、うまい。
「はい」
「む」
 湯気を立てる湯呑が、目の前に差し出されたのは、三つ目の団子が蘇枋の口の中に消えたところだった。
「ありがとう」
 一言言って、口にする。
 茶の渋みが丁度よく、上手い。
「いいえ」
 にこにこと、楓はかぶりを振った。
「ゆっくり、慌てないで食べてください。慌てて食べると、体に障りますから」
「……うん」
 頷いてまた、茶を飲んだ。


 斬紅郎もまた、団子を食っていた。
 すぐ近くにいるのに、なんだか取り残されたような気分に、憮然とした表情を浮かべて。

「椿・四」へ
目次に戻ります