結局、蘇枋は出ていくきっかけを見失い、その日は暮れた。 見失い、という言葉は、ひょっとしたら半分ほど誤っているかもしれない。 きっかけを見送ったようであり、もとより出ていこうとしていなかったかもしれない。 ここにいてはいけない、という意志はある。だからそれを行動に移せば、簡単に出て行けるはずだ。 だが、ここにいる。 ――なぜだ? 何度か繰り返した問いに返す答えは、やはり見つからない。 自分の心の動きが把握しきれない。自分にもどうしようもない、何かがある。その何かが、「ここにいたい」と強く主張する。 斬紅郎と出会ったときにも、こんな気持ちがあったことを、思い出す。 だが、今はたぶん、あの時よりひどい。 しかも、不可解なことに、この状態が必ずしも悪いとは思えない。なにかしら心地よい気さえ、する。 ――俺は、どうしたんだ… ころん、と布団の上を転がる。 傷が、痛んだ。 「……ん?」 がばっ、と身を起こし、包帯の上から、傷を再確認する。 ――変…だ。 自分が受けた傷のいくつかは、そう浅くはなかったはずだ。傷の直りは早い方だが、二日程度で『ここまで』回復するとは思えない。 いままで気づかなかったこともおかしいが、とりあえず今はこちらの方がおかしい。 ――どういう、ことだ……? 茫然と、蘇枋は傷を抑えた。 くるくると針に糸を巻き付け、すっと抜く。 浅く布をすくい、一針。 ぱちっ 糸を切る。 「……できた」 声を上げると、楓はゆらゆらと揺れる灯明の明りに、繕い終わった装束を透かし見た。 灯明の明りで一つは、さしたる光は得られず、また装束の色はその弱い光をも吸い取る闇の色だ。黒い糸で繕った後は、満足に見ることもできない。 「ん〜とっ」 目を細め、繕った跡に顔を近づける。 やはりよく見えず、今度は指を縫目に滑らせて見る。 「うん、大丈夫」 随分と針の通しにくい生地だったが、満足のいく仕上がりだ。縫いづらかったのは、生地のせいだけではなかったが。色々な所に隠し物入れがついているし、縫製そのものもかなり変わっている。 忍の装束とは変わっている、と楓は思ったものだ。 少年の名が『蘇枋』であること、『忍』というものであることを楓は兄、斬紅郎から聞いた。蘇枋を見つけたあの時に。 だが、二人がどういう知合いであるかは、斬紅郎は語らなかった。楓もあえて、聞かなかった。 それでも、少女は思った。兄は、この蘇枋という名の少年を気に入っているのだと。 「よしっ」 声を上げて、立つ。 手には、きちんと畳んだ装束と、蘇枋の刀、そして風呂敷包を持っている。包の中には、装束のあちらこちらに隠されていた、小さな武器や何かの道具がいれられている。 「無理はするな。まだ二日だぞ」 刀の手入れを黙々と続けていた斬紅郎が顔を上げ、言う。その顔には妹を案じる色がある。 「大丈夫よ、兄さん」 こくん、と頷くが、斬紅郎の表情から、心配の色は消えない。 「絶対、無理するな」 強い口調で、もう一度言う。 「大丈夫」 困ったように微笑んで、先と同じ答えを繰り返すと、楓は三つを抱えて部屋を出て行った。 その背を、首だけ動かして見送る。 ――無理はしない、とは、言わなかったな。 斬紅郎は二日前を思い返した。 少年を楓が見つけたのは、山に薬草を取りに行ったときだった。例年なら近場で見つかるものがなかなか見つからず、随分と山の奥まで踏み込み、そして、少年と出会った。 斬紅郎には傷だらけの少年が蘇枋だということは、すぐにわかった。 首の真紅の巻布、若鷹のような鋭い顔立ち。忘れてはいなかった。 …………………… ――助けてやろう。 思った。 だが、それを斬紅郎が口にするより早く、楓は少年に近づき、傷の手当を始めていた。 「楓」 「放っておけないでしょう」 振り向きもせず、手当を続けながら、答えた。 「こんなに苦しそうなのに……」 呟きが聞こえた。 穏やかでやさしげな風貌と、普段の物腰からはそうとはわかりにくいが、楓は、一度こうと決めたら譲らない。驚くほどの頑固さを見せる。 だからあの時、斬紅郎は何も言わなかった。妹の行動を止める理由もなかった。 だがわかっていた。 妹の心が、いつもとは違っていたことは。 「ふむう」 苦笑を交えた息を吐き出す。 らしくない、そう言えるほどの付き合いはなかったが、何故かそう言える、そんな表情を浮かべていた蘇枋。 一途に、蘇枋の世話をする楓。 「こればっかりはな……」 また一つ、息を吐いた。 夜闇の中、おぼろな影が障子に映った。何かを抱えた、ほっそりとした影。障子を通し、星明りと共に、床に落ちる。 静かに、障子が開いた。 「起きて…いたんですか」 困ったように、戸惑ったように、楓は言った。 「あ、ああ……」 傷に手を置いたまま、蘇枋は頷く。 「痛むんですか」 しゅっ、と衣擦れの音が走り、楓が膝をついた。 暗がりでも、その様は忍である蘇枋には見える。 「いや、もうさほどは。しかし」 「よかった」 笑んだ気配と、あのにおいが、感じられる。 「これ、置いておきますね」 持っていたものを枕元の辺りに置く。 「ちゃんと縫っておきましたから」 「…ありがとう。 だけど、いま持ってこなくても」 「ついで、ですから。もう寝てると思ったし……」 「ついで?」 すぐには楓の言葉は戻らなかった。 困り、ためらっているのが感じられる。 しかしその視線は、じっと蘇枋を見ていた。何かを訴えるように。 それはそのまま、言葉に宿った。 「……あの、驚いてもいいですけど、そんなにひどくは、驚かないでくださいね」 楓は手を伸ばし、闇の中を探りながら、蘇枋の体に振れた。おぼつかない手つきで、包帯を外そうとする。 「何を」 「急がれるんですよね。だから、早く治るように…おまじない……です」 なんとか、包帯が外れた。 薬草を外すと、楓は傷に、そおっと手を、置いた。 ……ぽ…お…っ 光。 ほんのりとあたたかみを感じさせる黄の光が、楓の手にともった。 光に花を蘇枋は思った。春の野に咲く、黄色の花を。 だが楓は野百合だと思う。たおやかに、ひっそりと咲く白い野百合だと。やさしく、純粋で、しかし、強い。 「早く…治りますように」 光が触れた傷の痛みが嘘のように薄れていく。 ――土……か。 五行五気の一つ、『土気』。 『生』であり、『死』であり、『始まり』であり、『終わり』であるもの。『央』であり、『一角』であるもの。 『土気』を己が性とする者の中には、癒しの力を使う者がいる。そう蘇枋は教えられ、また、実際に伊賀衆の中でその力を使う者がいることを知っていた。 「驚か…ない、のですか?」 変わらぬ蘇枋の様子に、楓はほっとしたように、しかし不思議そうに問うた。 「驚くなと言ったのは、楓殿だ」 全く驚いていないわけではない。 おそらくなんの修練もしていないであろうに、これだけ力を制することができるのは、大したものだ。 だが、驚けば楓を傷つける、その想いが、蘇枋に平静さを保たせた。 「そう、ですね」 言う声が、弾んだような気がした。 順番に、一つ一つ、傷を癒していく。 しかしその様子がおかしなことに蘇枋は気づいた。 呼吸が次第にゆっくりとしたものになっていき、体がゆらゆら揺れ、安定しない。 ――『気』の扱いには注意すること。『器』を超えれば、暴走する。そうなれば、使い手の身が危険だよ。 師の言葉が、頭をよぎる。 修練をしているとはあまり思えない楓が、気を制しきれないことは有り得る。この様子が暴走の徴候とすれば… ――…俺の、せいで…… 急に胸の奥が、締め付けられるように苦しくなり、言い知れぬ不安に蘇枋の心は揺れた。 「もうちょっと、です…から……」 眠そうな声。 『眠り』。土気が司るもの。 浮かぶ断片に、蘇枋の体は突き動かされる。 ぎゅっ 「もういいっ」 楓の手を握りしめ、短く早く、強い口調で言っていた。 「え…でも……」 なんだかとても眠そうな声で、楓は蘇枋を見た。 「もういい」 「ほん…と…に?」 「ああ、もう、平気だ」 「そう……よかった………」 ふっと、光が消え、同時に楓の体から力が抜ける。 「楓殿っ」 とっさに、抱きとめる。 ――あ…… 思い出した。 「ごめんなさい……いつも、こうなんです…なんだか、眠く………」 言葉は言い終わる前に、穏やかな寝息に変わっていた。 「楓殿…」 不安に心揺らしながらも、楓の様子を見る。 詳しくはわからないが、おそらく、そうひどい状態にまでなっているようではない、と思えた。 確信はないが、少しばかり蘇枋は安堵した。 楓は蘇枋の腕の中で、安心しきった様子で眠っている。 「…………」 その寝顔を見つめながら、蘇枋はやっと捕まえた、懐かしいにおいの記憶をたどっていた。 朝起きて、火を炊いて、食事を作って、食べて、日々の生活に関わる仕事をして、そして寝る。そんな当り前の生活のにおい。 いつそれが側にあったかは定かではない。それでも、かつてはそれが確かに、すぐ近くにあったことだけは、記憶の片隅に残っていた。 それと同じものが、楓から感じられる。 この少女から。 ――俺、は…… 不意に、蘇枋は自分の心の中に何か強い『想い』があることに気づいた。 あたたかく、あつく、つよく、やさしく、くるしく、ここちよく、はげしく、おだやかな……なんと言えばいいのか。うまく言い表すことのできない『想い』が、在る。 それを言い表す簡単な言葉はあるが、蘇枋はそれを知らなかった。仮に知っていたとしても、今の自分の『想い』がそうだと気づいたかどうか。 しかし、一つだけ、わかることが、あった。 それが楓という少女への『想い』だということ。 ゆっくりと、蘇枋は楓を抱きしめた。 『想い』のままに、こうしたいと望む己の心のままに、そっと、しかし強く、しかし優しく、抱きしめた。 |