椿・四


 結局、蘇枋は出ていくきっかけを見失い、その日は暮れた。
 見失い、という言葉は、ひょっとしたら半分ほど誤っているかもしれない。
 きっかけを見送ったようであり、もとより出ていこうとしていなかったかもしれない。
 ここにいてはいけない、という意志はある。だからそれを行動に移せば、簡単に出て行けるはずだ。
 だが、ここにいる。
――なぜだ?
 何度か繰り返した問いに返す答えは、やはり見つからない。
 自分の心の動きが把握しきれない。自分にもどうしようもない、何かがある。その何かが、「ここにいたい」と強く主張する。
 斬紅郎と出会ったときにも、こんな気持ちがあったことを、思い出す。
 だが、今はたぶん、あの時よりひどい。
 しかも、不可解なことに、この状態が必ずしも悪いとは思えない。なにかしら心地よい気さえ、する。
――俺は、どうしたんだ…
 ころん、と布団の上を転がる。
 傷が、痛んだ。
「……ん?」
 がばっ、と身を起こし、包帯の上から、傷を再確認する。
――変…だ。
 自分が受けた傷のいくつかは、そう浅くはなかったはずだ。傷の直りは早い方だが、二日程度で『ここまで』回復するとは思えない。
 いままで気づかなかったこともおかしいが、とりあえず今はこちらの方がおかしい。
――どういう、ことだ……?
 茫然と、蘇枋は傷を抑えた。


 くるくると針に糸を巻き付け、すっと抜く。
 浅く布をすくい、一針。
 ぱちっ
 糸を切る。
「……できた」
 声を上げると、楓はゆらゆらと揺れる灯明の明りに、繕い終わった装束を透かし見た。
 灯明の明りで一つは、さしたる光は得られず、また装束の色はその弱い光をも吸い取る闇の色だ。黒い糸で繕った後は、満足に見ることもできない。
「ん〜とっ」
 目を細め、繕った跡に顔を近づける。
 やはりよく見えず、今度は指を縫目に滑らせて見る。
「うん、大丈夫」
 随分と針の通しにくい生地だったが、満足のいく仕上がりだ。縫いづらかったのは、生地のせいだけではなかったが。色々な所に隠し物入れがついているし、縫製そのものもかなり変わっている。
 忍の装束とは変わっている、と楓は思ったものだ。 少年の名が『蘇枋』であること、『忍』というものであることを楓は兄、斬紅郎から聞いた。蘇枋を見つけたあの時に。
 だが、二人がどういう知合いであるかは、斬紅郎は語らなかった。楓もあえて、聞かなかった。
 それでも、少女は思った。兄は、この蘇枋という名の少年を気に入っているのだと。
「よしっ」
 声を上げて、立つ。
 手には、きちんと畳んだ装束と、蘇枋の刀、そして風呂敷包を持っている。包の中には、装束のあちらこちらに隠されていた、小さな武器や何かの道具がいれられている。
「無理はするな。まだ二日だぞ」
 刀の手入れを黙々と続けていた斬紅郎が顔を上げ、言う。その顔には妹を案じる色がある。
「大丈夫よ、兄さん」
 こくん、と頷くが、斬紅郎の表情から、心配の色は消えない。
「絶対、無理するな」
 強い口調で、もう一度言う。
「大丈夫」
 困ったように微笑んで、先と同じ答えを繰り返すと、楓は三つを抱えて部屋を出て行った。
 その背を、首だけ動かして見送る。
――無理はしない、とは、言わなかったな。
 斬紅郎は二日前を思い返した。

 少年を楓が見つけたのは、山に薬草を取りに行ったときだった。例年なら近場で見つかるものがなかなか見つからず、随分と山の奥まで踏み込み、そして、少年と出会った。
 斬紅郎には傷だらけの少年が蘇枋だということは、すぐにわかった。
 首の真紅の巻布、若鷹のような鋭い顔立ち。忘れてはいなかった。
 ……………………
――助けてやろう。
 思った。
 だが、それを斬紅郎が口にするより早く、楓は少年に近づき、傷の手当を始めていた。
「楓」
「放っておけないでしょう」
 振り向きもせず、手当を続けながら、答えた。
「こんなに苦しそうなのに……」
 呟きが聞こえた。

 穏やかでやさしげな風貌と、普段の物腰からはそうとはわかりにくいが、楓は、一度こうと決めたら譲らない。驚くほどの頑固さを見せる。
 だからあの時、斬紅郎は何も言わなかった。妹の行動を止める理由もなかった。
 だがわかっていた。
 妹の心が、いつもとは違っていたことは。

「ふむう」
 苦笑を交えた息を吐き出す。
 らしくない、そう言えるほどの付き合いはなかったが、何故かそう言える、そんな表情を浮かべていた蘇枋。
 一途に、蘇枋の世話をする楓。
「こればっかりはな……」
 また一つ、息を吐いた。


 夜闇の中、おぼろな影が障子に映った。何かを抱えた、ほっそりとした影。障子を通し、星明りと共に、床に落ちる。
 静かに、障子が開いた。
「起きて…いたんですか」
 困ったように、戸惑ったように、楓は言った。
「あ、ああ……」
 傷に手を置いたまま、蘇枋は頷く。
「痛むんですか」
 しゅっ、と衣擦れの音が走り、楓が膝をついた。
 暗がりでも、その様は忍である蘇枋には見える。
「いや、もうさほどは。しかし」
「よかった」
 笑んだ気配と、あのにおいが、感じられる。
「これ、置いておきますね」
 持っていたものを枕元の辺りに置く。
「ちゃんと縫っておきましたから」
「…ありがとう。
 だけど、いま持ってこなくても」
「ついで、ですから。もう寝てると思ったし……」
「ついで?」
 すぐには楓の言葉は戻らなかった。
 困り、ためらっているのが感じられる。
 しかしその視線は、じっと蘇枋を見ていた。何かを訴えるように。
 それはそのまま、言葉に宿った。
「……あの、驚いてもいいですけど、そんなにひどくは、驚かないでくださいね」
 楓は手を伸ばし、闇の中を探りながら、蘇枋の体に振れた。おぼつかない手つきで、包帯を外そうとする。
「何を」
「急がれるんですよね。だから、早く治るように…おまじない……です」
 なんとか、包帯が外れた。
 薬草を外すと、楓は傷に、そおっと手を、置いた。
 ……ぽ…お…っ
 光。
 ほんのりとあたたかみを感じさせる黄の光が、楓の手にともった。
 光に花を蘇枋は思った。春の野に咲く、黄色の花を。
 だが楓は野百合だと思う。たおやかに、ひっそりと咲く白い野百合だと。やさしく、純粋で、しかし、強い。
「早く…治りますように」
 光が触れた傷の痛みが嘘のように薄れていく。
――土……か。
 五行五気の一つ、『土気』。
 『生』であり、『死』であり、『始まり』であり、『終わり』であるもの。『央』であり、『一角』であるもの。
 『土気』を己が性とする者の中には、癒しの力を使う者がいる。そう蘇枋は教えられ、また、実際に伊賀衆の中でその力を使う者がいることを知っていた。
「驚か…ない、のですか?」
 変わらぬ蘇枋の様子に、楓はほっとしたように、しかし不思議そうに問うた。
「驚くなと言ったのは、楓殿だ」
 全く驚いていないわけではない。
 おそらくなんの修練もしていないであろうに、これだけ力を制することができるのは、大したものだ。
 だが、驚けば楓を傷つける、その想いが、蘇枋に平静さを保たせた。
「そう、ですね」
 言う声が、弾んだような気がした。
 順番に、一つ一つ、傷を癒していく。
 しかしその様子がおかしなことに蘇枋は気づいた。
 呼吸が次第にゆっくりとしたものになっていき、体がゆらゆら揺れ、安定しない。
――『気』の扱いには注意すること。『器』を超えれば、暴走する。そうなれば、使い手の身が危険だよ。
 師の言葉が、頭をよぎる。
 修練をしているとはあまり思えない楓が、気を制しきれないことは有り得る。この様子が暴走の徴候とすれば…
――…俺の、せいで……
 急に胸の奥が、締め付けられるように苦しくなり、言い知れぬ不安に蘇枋の心は揺れた。
「もうちょっと、です…から……」
 眠そうな声。
 『眠り』。土気が司るもの。
 浮かぶ断片に、蘇枋の体は突き動かされる。
 ぎゅっ
「もういいっ」
 楓の手を握りしめ、短く早く、強い口調で言っていた。
「え…でも……」
 なんだかとても眠そうな声で、楓は蘇枋を見た。
「もういい」
「ほん…と…に?」
「ああ、もう、平気だ」
「そう……よかった………」
 ふっと、光が消え、同時に楓の体から力が抜ける。
「楓殿っ」
 とっさに、抱きとめる。
――あ……
 思い出した。
「ごめんなさい……いつも、こうなんです…なんだか、眠く………」
 言葉は言い終わる前に、穏やかな寝息に変わっていた。
「楓殿…」
 不安に心揺らしながらも、楓の様子を見る。
 詳しくはわからないが、おそらく、そうひどい状態にまでなっているようではない、と思えた。
 確信はないが、少しばかり蘇枋は安堵した。
 楓は蘇枋の腕の中で、安心しきった様子で眠っている。
「…………」
 その寝顔を見つめながら、蘇枋はやっと捕まえた、懐かしいにおいの記憶をたどっていた。
 朝起きて、火を炊いて、食事を作って、食べて、日々の生活に関わる仕事をして、そして寝る。そんな当り前の生活のにおい。
 いつそれが側にあったかは定かではない。それでも、かつてはそれが確かに、すぐ近くにあったことだけは、記憶の片隅に残っていた。
 それと同じものが、楓から感じられる。
 この少女から。
――俺、は……
 不意に、蘇枋は自分の心の中に何か強い『想い』があることに気づいた。
 あたたかく、あつく、つよく、やさしく、くるしく、ここちよく、はげしく、おだやかな……なんと言えばいいのか。うまく言い表すことのできない『想い』が、在る。
 それを言い表す簡単な言葉はあるが、蘇枋はそれを知らなかった。仮に知っていたとしても、今の自分の『想い』がそうだと気づいたかどうか。
 しかし、一つだけ、わかることが、あった。
 それが楓という少女への『想い』だということ。
 ゆっくりと、蘇枋は楓を抱きしめた。
 『想い』のままに、こうしたいと望む己の心のままに、そっと、しかし強く、しかし優しく、抱きしめた。

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