椿・伍


 それまで闇の帳に包まれていた空に、光が走った。
 白い光は帳を一枚一枚はぎ取り、夜を朝へと変えていく。
 その光が障子をすり抜け、眠る楓の顔の上に舞い降りた。
「う……ん……?」
 うっすらと、目を開ける。
 ずっと、心地よいぬくもりに包まれていた気がする。
 すっぽりと包み込むそのぬくもりは、力強く、優しく、楓を『守って』いてくれた。
――夢…ううん…確かに……あった…いてくれた……
 ぼおっと思いながら、二度、三度瞬きする。
 温かい布団の中に、自分がいる。
 一人。
「え?」
 目をしばたたかせ、楓は身を起こした。
 いない。
 枕元に置いてあった物もない。
 きちんと畳まれた風呂敷が残されているだけだ。
「どうして……」
――ああ、やっぱり。
 言葉と心に浮かぶ、裏腹な、しかしどちらも誠の言葉。
 傷が癒えれば、すぐに行ってしまうと思っていた。そういう人なのだと、思っていた。
 だがそれでも、それでも、『まだ』いるものと、信じて、いた。


 時間は戻る。
 闇が、これが最後とばかりに濃さを増した刻、ぱちり、と蘇枋は目を開いた。
――……いる。
 腕の中の楓を見る。
 ぬくもり、こどう、におい。
 ここにいたいと思う。側にいたいと思う。
 できることならば、ずっと。
 そっと、波打つ髪に触れる。
 やわらかい。
 心地いい。
「ありがとう」

 装束は、見ただけではなく身につけてみても、繕ったのが殆どわからないほどきれいに直されていた。
 道具を隠しに入れ、刀を後ろ腰に差す。
 ふわりと真紅の巻布を首に巻く。
 初めて任を受けたとき、師から授けられたただ一つのもの。目立つ上に動くに邪魔だったが、言いつけだからずっとつけてきた。
 しかし、わかった気がする。
 これは、邪魔と思うことがあっても、なければならないものなのだ、たぶん。
 それはおそらく、大切なことなのだろう。


 薄々とではあるが、予感はしていた。
 蘇枋が留まることはないと、すぐにでも出ていってしまうと。
 外に出たのは、だからか。
 引き留めるつもりなのか、見送るつもりなのか。
 わからぬまま、斬紅郎は外に出た。
 朱鞘の大太刀を手にし、庭に出た。
 うっすらと、椿の香が庭を漂っていた。本来、さほど匂いの強くない花だが、全てが眠る夜には、こうしてそれを感じることもできる。
 庭の央に立ち、目を閉じる。
「斬紅郎」
 声がしたのは、どれほどの刻が経ったころだったろうか。
 闇と、椿の香は、何も変わらず、それを知ることは叶わない。
「行くのか」
 声がした方に顔を向け、問う。
 気配は殆ど感じられない。虚空に向けて話しているのではないかとさえ思う。
「行く」
 しかし、声は斬紅郎が見る方から、ちゃんと戻ってきた。
「どうしてもか」
「どうしてもだ」
「だめなのか」
 声が僅かに、うわずった。
 あの雨の日と結局、同じなのだろうか。
 何もしてやれないのだろうか。
「だめなのではないよ」
 感じられなかった気配が、椿の香気の中にほんの一刹那、姿を現した。
 笑んでいた。
 少し、困ったように、少年は笑んでいた。
「だめではないのか」
「だめではないから、俺はここにはいられない」
「俺は構わんのだぞ」
「俺が、嫌だ」
 だから、といった声が、少し、遠くなる。
「行く」
「楓には、言ったのか」
「……………いや」
 止まった。
「いいのか」
「わからない」
 声は、途方にくれていた。
「それでも行くのか」
「ああ」
 それでも、声には揺るぎない想いがあった。
「そうか」
「そうだ」
「わかった」
 斬紅郎は、言った。
「元気でな」
 するりと自然に、言葉は出た。
「斬紅郎も。楓、殿にも」
 それを最後に、ぱたりと声は絶えた。
 微かに香が流れる。
 その香の中に一人立つ斬紅郎の心には、寂しさと……満足があった。

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