それまで闇の帳に包まれていた空に、光が走った。 白い光は帳を一枚一枚はぎ取り、夜を朝へと変えていく。 その光が障子をすり抜け、眠る楓の顔の上に舞い降りた。 「う……ん……?」 うっすらと、目を開ける。 ずっと、心地よいぬくもりに包まれていた気がする。 すっぽりと包み込むそのぬくもりは、力強く、優しく、楓を『守って』いてくれた。 ――夢…ううん…確かに……あった…いてくれた…… ぼおっと思いながら、二度、三度瞬きする。 温かい布団の中に、自分がいる。 一人。 「え?」 目をしばたたかせ、楓は身を起こした。 いない。 枕元に置いてあった物もない。 きちんと畳まれた風呂敷が残されているだけだ。 「どうして……」 ――ああ、やっぱり。 言葉と心に浮かぶ、裏腹な、しかしどちらも誠の言葉。 傷が癒えれば、すぐに行ってしまうと思っていた。そういう人なのだと、思っていた。 だがそれでも、それでも、『まだ』いるものと、信じて、いた。 時間は戻る。 闇が、これが最後とばかりに濃さを増した刻、ぱちり、と蘇枋は目を開いた。 ――……いる。 腕の中の楓を見る。 ぬくもり、こどう、におい。 ここにいたいと思う。側にいたいと思う。 できることならば、ずっと。 そっと、波打つ髪に触れる。 やわらかい。 心地いい。 「ありがとう」 装束は、見ただけではなく身につけてみても、繕ったのが殆どわからないほどきれいに直されていた。 道具を隠しに入れ、刀を後ろ腰に差す。 ふわりと真紅の巻布を首に巻く。 初めて任を受けたとき、師から授けられたただ一つのもの。目立つ上に動くに邪魔だったが、言いつけだからずっとつけてきた。 しかし、わかった気がする。 これは、邪魔と思うことがあっても、なければならないものなのだ、たぶん。 それはおそらく、大切なことなのだろう。 薄々とではあるが、予感はしていた。 蘇枋が留まることはないと、すぐにでも出ていってしまうと。 外に出たのは、だからか。 引き留めるつもりなのか、見送るつもりなのか。 わからぬまま、斬紅郎は外に出た。 朱鞘の大太刀を手にし、庭に出た。 うっすらと、椿の香が庭を漂っていた。本来、さほど匂いの強くない花だが、全てが眠る夜には、こうしてそれを感じることもできる。 庭の央に立ち、目を閉じる。 「斬紅郎」 声がしたのは、どれほどの刻が経ったころだったろうか。 闇と、椿の香は、何も変わらず、それを知ることは叶わない。 「行くのか」 声がした方に顔を向け、問う。 気配は殆ど感じられない。虚空に向けて話しているのではないかとさえ思う。 「行く」 しかし、声は斬紅郎が見る方から、ちゃんと戻ってきた。 「どうしてもか」 「どうしてもだ」 「だめなのか」 声が僅かに、うわずった。 あの雨の日と結局、同じなのだろうか。 何もしてやれないのだろうか。 「だめなのではないよ」 感じられなかった気配が、椿の香気の中にほんの一刹那、姿を現した。 笑んでいた。 少し、困ったように、少年は笑んでいた。 「だめではないのか」 「だめではないから、俺はここにはいられない」 「俺は構わんのだぞ」 「俺が、嫌だ」 だから、といった声が、少し、遠くなる。 「行く」 「楓には、言ったのか」 「……………いや」 止まった。 「いいのか」 「わからない」 声は、途方にくれていた。 「それでも行くのか」 「ああ」 それでも、声には揺るぎない想いがあった。 「そうか」 「そうだ」 「わかった」 斬紅郎は、言った。 「元気でな」 するりと自然に、言葉は出た。 「斬紅郎も。楓、殿にも」 それを最後に、ぱたりと声は絶えた。 微かに香が流れる。 その香の中に一人立つ斬紅郎の心には、寂しさと……満足があった。 |